2011年8月24日水曜日

最後の投稿

さて,本ブログはローマ滞在日記なので,もうこれ以上書くことはない.ここまでお読み頂いた方に感謝する次第だ.これからローマに滞在される方々に何らかの参考となれば大変うれしい.

最後にローマ出発後,帰国までの状況を簡単に.

16日はLuccaからMonacoまで移動,17日はNiceを経由してAvignonまで移動,見たかったPon du Gareにも足を運びながらここに2泊して,19日に700km弱の移動を敢行してParisに到着した.Parisに3泊して,22日に羽田便に搭乗,翌23日朝に羽田空港に到着して無事帰国である.

Avignonを出発するまで,22日のフライトを1週間程度延期するか迷っていた.しかし,首都圏の混乱が収束に向かいつつあるとの情報を得て,予定通り帰国することを決断したのだった.

苦楽を共にしてきた愛車Clioはパリ空港そばの返却ステーションで無事返却した.心の中で「いろいろとありがとう」とつぶやきつつ...

お世話になったローマの皆様へ,また会う日までお元気で.

日本人学校の終業式

3月15日,いよいよ子供たちの最後の登校日だ.卒業式の後にお別れ会が控えている.もちろん,我が子たちは主役であるが,主役は何と13名! なんと多くの子供たちが日本人学校を後にすることか...加えて,3名の先生方も日本に戻るので,その送別会も兼ねている.

主役たちは壇上に上がり,一人一人お別れの言葉を言い,それに対してクラスメートたちがお別れの言葉を返していく.全生徒の3割が送別対象なので,送る方も大変である.

お別れ会を締めるのは,全員で校歌を歌いながらの退場である.これは率直に言って泣ける.私はあんまり湿っぽいのは苦手なのだが,そんな私も少しウルウル来たくらいなので,主役たちはさぞかしつらかっただろう.しかし,どちらかというと送り出す方に泣いていた人が多かったかな.

お別れ会の後,主だった方々にお別れの挨拶をして,いざパリに向けて出発.この日はイタリア最後の宿泊地,Luccaまで350kmを移動だ.

ローマ出発の前日:ついにアパートを退去する

3月14日,翌日に日本人学校の終業式を控えていた.終業式を終えたその足でローマを去ろうと考えていたので,この日にアパートを退去して,日本人学校に比較的近いホテルに泊まることにした.

あらかたの荷物は既に日本に送り出しており,残すは大型のスーツケース2つ,小型のスーツケース2つ,段ボール箱1つである.ビジネスバックなどの細々とした鞄も複数ある.これらをあの小さいClioに載せるのだ.これらを何とかClioに詰め込み,いざ出発,アパートよさらば! 助手席も後部座席もやや苦しそうだったが,我慢できないことはなさそうだ.明日からはこの状態でパリまで移動するのだ.ホテルのチェックインはもちろん問題なし.

この日の夜は滞在中仲良くして頂いたW氏家族とF氏家族がローマから南に車で1時間くらい移動した雰囲気の良いレストランでお別れ会を開いてくれた.最後のローマの夜は楽しくもしみじみと過ぎていった.

2011年8月1日月曜日

イタリアメディアの東日本大震災報道から感じたこと

東日本大震災はすぐにイタリアのメディアで取り上げられた.ヘリから撮影された仙南平野を疾駆する津波,リアス海岸に押し寄せる津波の映像はそれは衝撃的だった.国営放送RAIが使用していた画像はNHKのものを使用していた.

翌日には福島第一原発で水素爆発事故だ.この画像も衝撃だった.ただ,このことを一番早く知ったのは確かCNNのサイトであった.イタリアの地方紙も一面トップは震災モノである.ここまで日本が注目されてことは最近ではなかっただろう.何ともやるせないものだ.言葉は正確に理解できないが,原発事故を境に,報道の内容は日本への同情に併せて非難が入り始めているように感じられた.

聞く話によると,日本人学校のあるママは3月下旬に子供を連れて日本に一時帰国する予定だったのだが,そのイタリア人のパパが親族から「放射能まみれの日本に子供つれて戻ることを許すなんてなんと非人道的な!」と叱責を受けたそうである.私も何人かのイタリア人に「そんな危険な日本に本当に帰るのか?」ということを言われた.

この例を紹介したのは,日本の外務大臣が全然画面に登場しなかったことに問題意識を感じたからだ.大変奇異に感じられたし,海外にいる身としては,政府が国内にしか意識が行っていないように見えたことが大きな不安だった.海外から同情と懸念の声が大きくなる中,大臣がどのような対応をしていたのか,実は今もって全く分からない.大使を含め,大使館の動きはどうだったのだろうか? イタリア人とイタリア社会の日本に対する懸念を払拭するような行動をきちんと取ったのだろうか? ご存じの方は教えてください.

引っ越し荷物の送り出し

アパートの退去手続きが済んで,今度は引っ越し荷物である.ローマに来たときには,大型スーツケース3つ,小型スーツケース2つでやってきて,さらに3箱ほどをEMSで別送したが,その時よりは荷物が確実に増えていた.トランクが大きくないclioでパリに行かなければならないので,スーツケース全てを持って行くのは不可能である.

インターネットで調べると,ローマでは日通とヤマト運輸が日本までの引っ越し荷物を取り扱ってくれるようだった.船便と航空便それぞれの荷物の種類と量を大まかに把握し,スーツケースを一つ船便として送り返すという条件の下では日通の方が良かったので,そちらにお願いすることにした.

各段ボール箱とトランクは25kg以下にする必要がある.この重量の調整が大変.こちらで入手した書籍や資料,日本に持ち帰りたい書籍,子供たちの教科書など,重量のかさむものもたくさんある.色々と試行錯誤して,航空便で4箱,船便で4箱+スーツケースということになった.費用は日本円で20万円くらいだったかな?

3/10の午前中に日通から依頼を受けたイタリア人ドライバーがこれらの引っ越し荷物を受け取りに来た.英語が話せたので何のトラブルもなく荷物を持って行ってくれ,一安心.退去手続きも荷物の送り出しも終了し気楽になった後に,警察に行って滞在許可証を受け取り,まさにルンルン気分だった.翌日にあんなことになることも知らずに...

ちなみに,航空便は帰国時の入国審査後に指定された日通のカウンターで手続きを行い,約一週間後に自宅に配送されてきた.船便は5月中旬に到着したので,約二ヶ月と行ったところだ.いずれも中身の欠損はなくてホッとした.

2011年7月22日金曜日

アパートの退去手続き

アパートの退去を3月14日に決めたので,9日にアパートの状態を大家にチェックしてもらうことにした.
アパートの契約時に2ヶ月分の敷金を支払っている.これがどの程度戻ってくるのかが焦点だ.しかも,ボイラーの故障時にテクニコに私の方から代金を支払っているので,この分がきちんと考慮されるかも重要なポイントである.

1年間も住んでいたので,水回りはどうしても汚れてくる.シャワールームの天井と壁はカビが発生しており,とても拭き取って落ちるレベルではない.なんだかんだでまあ1ヶ月分は取られることになるのだろうと推測していた.

約束の時間から20分程度遅れて大家が到着.このくらいの遅れは既に何にも憤りを感じなくなっている自分が怖い(笑).日本人会事務局のM氏にも同席して頂いたので,大家との会話は問題ない.「いい滞在だったかい?」と聞いてくるので,「もちろん」と答える.すると,全部屋の状態のチェックを行うことなく,敷金全額とボイラー修理費の立て替え分をそのまま返してくれた.現状復旧はこちらでやってくれということらしい.彼の対応は最後まで怖くなるくらいの適当さだ.まあその方がこちらも楽だけど.

仕方ないので,M氏にお願いして,知り合いの何でも屋に現状復旧をお願いすることにする.見積もりの結果,トータルで450ユーロでやってくれるというので,お願いすることにした.一ヶ月の家賃の40%弱で済んでしまったのでラッキーと言うべきだろう.修復は我々が退去した後に行われるので,慌てる必要もない.

後は退去後に鍵束をM氏に預けるだけで引き渡し手続きは終了である.拍子抜けするくらいの簡単さである.

2011年7月21日木曜日

震災の日

さて,あの震災である.3月11日の日本時間午後3時前.ローマでは午前7時前だ.この日は実は研究所への最後の出勤日でもあった.14日にはアパートを退去し,15日にローマを離れるために,この日が本当の意味で最終日だったのだ.いつものように子供たちを日本人学校に送り届け,そのまま研究所に向かう.

到着は10時前だったろうか.パソコンを開いてインターネットでニュースをチェックすると,宮城県沖を震源とする大地震の記事が目に飛び込んでくる.しかも首都圏でも震度6クラスの揺れである.直ちに家内の実家に連絡を取る.ここはすぐつながって,「とりあえず大丈夫.たまたま義父が我が家の空気入れ替えをやっていたタイミングで地震があったが,そちらも大丈夫」ということで一安心.その結果を家内に連絡し,今度は私の実家に連絡.こちらはつながらず,結局つながったのはその数時間後だったと記憶している.「被害はない.仙台いる妹(私の伯母)は無事,日立にいるその娘には連絡が取れないが大丈夫だろう」とのことでこちらもまずは一安心だった.

ローマ時間の昼頃には,インターネット上にヘリコプターから津波をキャッチした映像が出回っている.NHKのサイトは全くつながらず,BBCやCNNのサイトから情報を入手する.これらは本当に情報が早く,非常時の強さを見せつけられた.

今回の滞在でお世話になった研究所の教授がやってきて,最後の挨拶をする.「どのぐらいの被害になりそうか?」と聞いてくるので,不謹慎ながら「千人単位の死者が出ているだろう」と答えたような気がするが,死者数はあっという間にこの予想を超えてしまい,言葉を失う.

もちろん最終日の余韻を楽しむことはもはやできず,ひたすら情報収集に明け暮れる.夕方,最後に世話になった同室のF女史に鍵を返却して,別れを告げてから帰宅の途に着く.送別会などもなく,あっさりとした最後だった.よく考えたら,歓迎会もなかったな.

自粛を終えてブログをちょっとだけ再開

さて,ものすごい久しぶりの更新である.更新をしなかった理由は震災である.ニュースから流れてくる圧倒的な被害を目の当たりにして,のんきにブログを書いている気にならなかったのだ.予告なく勝手に自粛してしまったので,何人かから「滞在許可証をもらってからどうなったの?」というクレームがあったのだ.いつかは再開して,最後の二週間の顛末を書こうと思ったいたのだが,日本に帰ってきてからの日々に全くの時間的余裕がなく,つい今日まで先延ばしにしてしまった.ブログは時間と意欲がないと続かないものだとつくづく思う.

そのような訳で,本日よりちょっとずつブログを終了するために努力いたします.

2011年3月10日木曜日

あきらめていた滞在許可証をようやくゲット!

ローマ出発まで一週間を切った.完全にイタリア生活を満喫し,まだ帰りたくないと本気で思っているが,来年度のことを考えると仕方がない.最後は滞在許可証問題である.

私自身は9月中旬,同行家族は年末に審査を終え,後は発行を待つばかりになっていた滞在許可証.私は3ヶ月後に,家族は2ヶ月後を目処に発行されると言われていた.携帯番号を聞かれ,「SMSで受け取りの連絡が行く」と伝えられていたが,一向にその連絡が来ないのだった.

1月に大使館の方と仕事をしている時に,「まだPermessoが発行されていない」というと,イタリア人女性秘書が「引換券のIDでインターネット上で状況をすることができます」」と教えてくれたのだった.審査時にそんなことは一切聞いていないゾ.「私が大使館でその担当なので早く発行されるようにお願いしてみます」とのことだったので,とにかくお願いすることにした.

彼女に国家警察とやりとりをしてもらうが,「印刷に回っているかどうか調べます」と言う返答があってから何の情報もない.三週間ほど前まで,定期的にPolizia di Stato(国家警察)の専用サイトにアクセスして状況をチェックしていたのだが,ずっと「まだ印刷中」との表示だった.「これはもうだめだな」と感じて,しばらくサイトをチェックしていなかった.

昨日朝,ふとサイトにアクセスしてみる.すると,「受け取り可能」と表示されているではないか! 後は家内の分だが,こちらも受け取り可能との表示だ.やはり大使館からのプッシュが効いたのか? 結局SMSでの連絡は入っていないが,どうなってるんだろうか? いずれにしても,居ても立ってもいられず,家内を連れて指定の警察署(これは自宅に結構近い)に急行する.

審査時にあんなに混雑していたので,受け取りもそれなりに混雑するのだろうと思っていたが,結果から言うと混雑もなくすんなりと受け取ることが出来た.受け取りに当たって,再度厳密にチェックされたり,難癖を付けられるのだろうと「期待」していたが,「そんな緩くて大丈夫?」と心配するくらいに,あっさりと受け取れたのだった.

それにしても受け取った滞在許可証は,その苦労をあざ笑うかのような貧弱な作りである.一応プラスチック製でICチップも入っているが...もっともイタリア人達の持っている個人IDカードは何と紙製なので,それよりは丈夫そうだ.

残り一週間を切って,めでたく「正式な合法滞在」の実現である.やれやれ.

ローマ日本人学校のふれあいの会

3/5のお昼に,日本人学校の「ふれあいの会」というイベントがあった.先生方を囲んで年に一度,ランチを共にするという主旨らしい.この日の朝に飛行機が遅れることなくベトナムから到着し,無事参加することができた.先生方や親たちと最後にいろいろと話をすることができ,この1年間の思い出が思わず頭によぎる.

この会に限らず,日本人学校には先生と親が,あるいは親同士が親睦を深められる機会が非常に多い.たった1年しかいない身にとってこれは大変ありがたいことだ.お陰で一家揃って大変楽しい滞在を過ごすことが出来ている.パパやママ達はイタリアという厳しい環境で生き抜いているだけあって自分を強く持っている人が多いし,話すとなかなか楽しいことが多いのだ.

普通の学校と違って,先生方のお子さんも学校の生徒さんという,極めて狭い世界である.例えば,うちの長男のクラスメートのパパは次男の担任,次男のクラスメートのパパは教頭という具合だ.こんな世界で先生方は距離感の取り方に大変苦労されているのだと思う.

生徒達も小学1年から中学3年まで横(同学年)だけでなく縦のつながりがものすごく強い.これは都会の小・中学校では決して体験できないので,我が家にとって非常に貴重な体験だ.特に,高学年の子たちの面倒見の良さに感心するが,子供達の性格と言うよりは環境がそうさせているのだと思う.日本の小学校ももっと縦割りの教育を取り入れてはどうかと思うくらいだ.

2011年3月6日日曜日

何とも杜撰なフィウミチーノ空港の出入国審査

ベトナム出張から帰ってきた.滞在許可証は依然として出来上がったという連絡を受けていないが,私だけなら1年間のMulti-entryのビザを持っているので,出入国には問題はない.

今回は,滞在中初めて,ローマのフィウミチーノ空港で出入国審査を受けた.出国の時は,わずか数秒で終了.ろくに中身を見ずに,出国スタンプを押しただけだ.しかし,受け取ってから後で確認してみると,押されているはずのスタンプがどこにも見あたらないのだった.きっとインク切れだったのかも知れない...

今度は戻ってきて入国審査だ.驚くことに担当官は,パスポートの最初のページを全く確認せずに,スキャナーで読み取ることなく(これは他のシェンゲン国でも同じかも知れない),私の顔をほとんど見ずに,ビザのページを一切確認せずに,入国スタンプを押していた.しかもスタンプのないページのど真ん中に斜めに押されている.

この入国時の担当官の対応には正直言って驚きを覚えた.これなら他人のパスポートでも余裕で入ることができてしまう.日本人ならそんなことはしないと高をくくっているのかも知れないが,ものすごく杜撰だ.テロ対策などはどうなっているのだろうか?

2011年2月27日日曜日

やっとバチカン博物館に行く

昨日,ついにバチカン博物館に行くことになった.バチカンには子供達を連れて行きたかったので,必然的に週末になる.日曜日は最終日曜日の無料デー以外は休館なので,土曜日しかあり得ないのだった.今日は無料の日なのだが,まあ混んでいるだろうから子供連れには厳しいだろう.

12年前の新婚旅行でももちろん来ていたのだが,この時は事前予約制度なんかなかったと思う.そのため入場までに並んだ記憶があるのだが,今回はインターネットで事前予約である.本当に便利な世の中になった.ここでも事前予約料をバッチリ取られる.

13時からの予約で,12時40分には現場に到着.さぞかし並んでいるのかと思いきや,全然入場待ちをしている人がいない.これは空いている.翌日が無料だし,2月だからあまり近隣諸国からの観光客がいないのだろう.はぁ,事前予約料がもったいなかった.ちなみに日本人は多かった.ほとんどが大学生だろうが,バチカンに限らず,ローマ市内ではここ一週間くらいあちこちから日本語が聞こえてくるのだった.

いよいよ入場,一応入場可能な部屋は全て足を運んだが,もう圧倒的な展示品数に「もうやめてくれよ」と言いたくもなる.空いていたので,3時間もかからなかったのがせめてもの救いだ.終わった時にはひどい腰痛である.

やはり混んでいるのはラファエロの間とシスティーナ礼拝堂.ラファエロの間はそんなに感動しなかった(やはりフレスコ画は見栄えの点では不利だ)のだが,システィーナ礼拝堂は素直にすごいと思うしかない.静かに見ようとしても騒がしいし,誰かが写真を撮る度に係員が大声で注意するのも大変耳障りである.写真を撮る不届き者は国籍を問わないのだが,本当に止めてもらいたい.だいたい,美術品の写真を撮っても,その後ほとんど見ないし,第一鑑賞に堪えるほど上手に撮れないのだから.ちなみに,個人的に一番感動したのは地図の間だ.

途中のPizzeriaで遅いランチを取ったのだが,これがイタリアで食べたピザの中で最も最低のものだった.クラッカーのチーズのせといった感じだったが,観光客もバカにされたものである.

博物館の後は,もう一度サンピエトロ大聖堂を見て,Navona広場近くのカラバッジョ三部作のあるSan Luigi dei Francesi教会に入る.この三部作はある礼拝堂の三面に飾られているのだが,その前だけものすごい人だかりだ.暗いので,実はあんまりよく見えないのがちょっと残念だ.もともと暗い絵なので,鳥目の私には真っ暗である.

さて,明日から一週間海外出張なので,次の更新は3月6日以降になります.

ボルゲーゼ美術館へ行く

ローマに来てから,ローマ内の美術館と博物館へはまだほとんど足を運んでいなかった.帰国が近づきつつある今日この頃,そろそろせめてメジャーな所には行っておきたいと考えるようになった.

そんなわけで,その第一弾として,この前の水曜日にボルゲーゼ美術館に行くことにしたのだった.子供達は大して面白くないだろうということで,夫婦だけで見学である.ここは2時間ごとに入場者数が制限されているので,事前予約がベターだ.予約料もしっかり取られるのだが,まあ仕方ないので,インターネットで事前予約する.我々は午前11時からのスロットを予約したが,さすがにこの時間帯の予約可能残り人数が最も少なかった.

30分前までにチケットに交換しないといけないので,余裕を見て自宅を出発し,1時間前には美術館に到着し,無事チケットを入手し,11時まで時間をつぶす.一切の荷物をクロークに預けないといけない.もちろん写真は撮ることが出来ない.

11時に入場して,ガイドブックで推奨している作品を探しながら,一応全展示室を巡回する.確か20部屋くらいあったと思う.入場者数に制限があるので,そんなに混雑せずにゆっくり鑑賞することが出来る.はやり目を引くのは,ベルニーニの有名な彫像と,カラバッジョのいくつかの絵画であろうか.ラファエロの色使いもやはり目立っている.美術には明るくないが,やはり天才と言われた人達の作品は,周辺の作品よりは映えて見えることは,フィレンツェでも感じたものだ.

2011年2月23日水曜日

カプリ島を諦めカゼルタへ

翌日曜日,朝一番のフェリーでカプリ島に向かうつもりだったが,天気はあいにくの曇り.行っても洞窟は期待できないので,縁がなかったと早々に諦めることにした.ゆっくりホテルで朝食を取り,替わりにどこに行くかを検討する.

個人的にはカゼルタ宮殿に行きたかった.カゼルタはナポリの北30kmくらいの所にある町だ.9月にレンタカーが高速道路で故障し,代車を手配してもらったあのカゼルタだ.当時は中央駅前に宮殿があることに気がつかなかった.その後,この宮殿に面白い公園があることを知ったのだ.カプリ島を諦めて少しガッカリしている子供達に,「替わりに面白い公園に連れて行ってあげる」と言って納得させてホテルを出発.

このカゼルタ宮殿は世界遺産である.宮殿もかなり大きく,きちんと見ると見応えがありそうだが,今回はパス.宮殿前の公園だけに絞る.この公園,長さが3kmくらいあるらしく,もちろんその先端まで行って見たい所だ.

まずは車で公園の先端に向かうが,どこからも入場できない.どうやら宮殿側から入場しなければならないようだ.仕方ないので,宮殿近くに何とか駐車スペースを確保し,いよいよ公園に入る.

長さ3kmの公園は,宮殿から先端まで少しずつ登っていく感じだ.途中でいくつかの芸術的な噴水があり,先端には人工の滝がある.日光の竜頭の滝みたいな感じ.この滝から反対側の宮殿を眺めると,「随分と歩いてきたものだ」と自分を褒めることができるだろう.このバカみたいな長さの公園は素直に感動した.

帰りは疲れたので,園内を走る周回バスに乗って宮殿まで戻る.園内では子供達があちらこちらでサッカーに興じており,地元民にとっては単なる都市公園と言った趣なのだろうと思う.

アマルフィー海岸:絶景を拝むための苦難

土曜日はソレントに宿を取っていた.日曜日にカプリ島に渡ってワンチャンスで青の洞窟を見ようと思ったからだ.ソレントからカプリ島には頻繁に船が出ているらしいのだ.

ローマを比較的ゆっくり出発してきたので,ベスビオを下山した段階で午後2時半くらいだった.アマルフィー海岸にもまだ行っていなかったので,迷わず向かうことにした.サレルノまで行き,そこからアマルフィー海岸を経由してソレントに向かう.

サレルノ北部で高速A3号線を降り,いよいよアマルフィー海岸へ.ここはリアス式海岸で,切り立った崖と青い海が素晴らしい風景を創り出している.天気にも恵まれ,スタートから絶景である.しかし,海岸沿いを走る道路はくねくねだ.車酔いに弱い人は地獄への道である.サレルノからソレントまで40km以上はあると思うが,順調にいっても1時間半はかかるような状況だ.

車酔いしやすい長男に配慮して低速で慎重に運転する.たまたま渋いオープンカーが前をとろとろ走ってくれていて助かったのだが,それがいなくなると,後ろから速い車とオートバイが容赦なく攻めてくる.ちょっとしたストレートで彼らがぶち抜いてく.見ているこっちが対向車とぶつからないかハラハラする.

そうこうしているうちにアマルフィーに到着.中心部付近で駐車するのは難しく,港の端っこの方に何とか駐車場を発見する.この駐車場の側から防波堤が延びていて,その先まで歩いて行くことが出来る.そこから見るアマルフィーの町はなかなかきれいだし,「こんな所に張り付いてよく住んでいるな」と感心できる.

ポジターノは通過しただけだったが,たぶんアマルフィーの方がこじんまりして映えて見えると思う.

苦難のドライブを乗り越え,すっかり暗くなってからソレントに到着.ディナーはソレントのシーフードを堪能だ.

ベスビオ山の噴火口へ

先週末,今年に入って早くも三度目の南部旅行に出かけた.土曜日に訪れたのはベスビオ山だ.私だけは9月に一度ベスビオ山に登っているのだが,今回は家族みんなで登頂である.前二回の旅行では天候に恵まれず,今回まで延び延びになっていたのだった.

ベスビオ山は標高1,000mくらいまで車で登ることが出来る.この道はものすごいくねくねしていてところどころ狭くなっているのだが,観光バスや路線バスも入ってくる.車酔いの激しい人は大変苦痛である.この途中でも,ナポリ方面の素晴らしい景色を楽しむことが出来る.


駐車場に車を泊めて,いよいよ登頂開始だ.大昔のベスビオ山はもっと標高が高かったらしいのだが,度重なる爆発で山頂部がなくなってしまったようだ.そのため,現在は二つの山頂がある.駐車場から登るのは山頂が高い方で,その途中の標高1,200mくらいに最も直近の1,942年の噴火で出来たクレーター状の噴火口があり,その外周部を歩くことが出来るのだ.割ときつい坂道を15分くらいかけて登ると外周部に辿り着き,そこから10分くらいかけて外周部遊歩道の先端まに辿り着ける.

外周部遊歩道の入口の小屋で入場料(大人一人8ユーロだったかな?)を支払う.すると近くにいたガイドが,「あと2分で英語の解説が始まりますので良かったらどうぞ.これは入場料に含まれています」ということだったので,その人の説明を聞くことに.5分くらいの説明を受けた後に,「後はこの先で運が良ければ別のガイドから説明が受けられるかも知れません」と言うことで,入口付近担当のガイドということらしい.

その後は外周部遊歩道の先端に向かう.噴火口の西側を北から南に進む感じだったと思う.そのため,北側はナポリ湾の,南側はソレント半島の素晴らしい眺めが楽しめるのだ.この日は快晴だったがやや霞んでいて,完全にクリアな風景ではなかったのだが,十分に満足できるレベルにはあった.先端である南端では残念ながらガイドを発見できず,ポンペイの位置がよく分からなかったのがちょっと残念だ.

正直言って車がないとなかなか来ることが難しいと思うが,軽装でも全く問題なく,2時間くらいのちょっときつい散歩という感覚で楽しめるのでお薦めだ.ただし,火山のすごさを実感したければシチリアのエトナ山を薦める.

2011年2月22日火曜日

ローマの本屋事情

一応学者の端くれであるから,どんな国に行ってもなるべく本屋には立ち寄ることにしている.本屋に行けばその国の市民がどの程度の知的水準かだいたい想像できる.

日本では通勤で東京駅を経由していたので,本屋と言えばもっぱらオアゾの丸善か八重洲ブックセンターだった.私の大型書店の基準はこの両者である.これらに比べると,住んでいた横浜の書店レベルは何とかならないのかと常々思っていたものだ.

さて,ここローマでは,「ここに行けば大抵のものが揃っている」と思えるほどの大型書店はないようだ.私が愛用しているのは,Termini駅構内の書店(名前は忘れた),Nazionale通りのローマ三越近くにあるMel Bookstore,Argentina広場にあるLa Fertrinelliの三店だ.これらはローマの中では大きいと思うのだが,店舗面積はたぶん八重洲ブックセンターの2フロアー分くらいしかない.

書店では,主にガイドブック,歴史書物を中心に,ローマやイタリアの地勢や歴史を勉強するのにいい書籍がないか探しているが,なかなか魅力的なものがなくて苦労している.買う気はないが,たまに専門書コーナーも覗いてみるが,充実度合いはかなり悲惨なものがある.英語書籍はかなり限られているのは日本と同じだ.書籍はほとんどソフトカバーで,そのせいか値段は安い.イタリア人はほとんど本を読まないと聞いたことがあるが,確かに列車やバスの中で本を読んでいる人もそんなに見ないので,全然売れないのだろう.安くて売れないとは作家も大変だろう.日本みたいに多様な作家の新刊書が雨後の竹の子のように新刊コーナーに並ぶという環境ではないようだし,出版業界は全然儲かりそうにない.

書店では必ず地図コーナーを覗くことにしている.この地図のレベルがなかなか悲惨である.「これはいい」と思える地図になかなか辿り着かない.道路地図は縮尺が大きすぎて,都市部の詳細図も貧弱で,全然使えない.まあ,詳細地図がなくても中心部にたどり着けるので,ニーズがないのかも知れないが.土木屋として地形図なんかも欲しいところなのだが,これは軍事関係機関に発行を依頼しないと入手できないようだ.ちなみに,地図やガイド類はさすがにTerminiの書店が一番充実している.列車待ちの時間で気が向いたら是非立ち寄ってみて下さい.

2011年2月21日月曜日

何やら行きつけBarのクリエンテになる

最近は出勤した時のランチのBarがほぼ決まってしまった.相変わらずイタリア式サンドイッチと言うべきPaninoをテイクアウトして簡単な昼食としている.量が多いので,これだけで十分である.特に豚の丸焼きのPorchettaのPaninoをよく食べている.

このBarでは出勤途中にFrezzanteのミネラルウォーターを1本購入することにしている.先週のある朝,すっかり顔なじみになった女性の店員に,「あなたはクリエンテだから水を50セントにしてあげる」と言われた.これまでは1ユーロで買っていたのだが,その日以来50セントで水を購入できるようになった.

Paninoも滞在当初は4ユーロだったが,途中で3ユーロに値下がりし,最近は2.5ユーロで水も付けてくれることがあるようになった.こうなると,他のBarへ入っていくところを見られるとまずそうなので,最近はすっかりこのBarに入り浸りとなっている.

歩かない大人の作り方?

こちらに来てから様々なことを観察しているが,つい考えさせられてしまうことの一つに,幼稚園の年長相当か,ひょっとすると小学校低学年くらいの子供達の多くが,相変わらずベビーカーに乗っていることがある.ベビーカーの大きさに比べて,その子達の大きさが大きすぎるので,明らかに乗り心地が悪そうである.

小学校では子供の送迎が原則義務化されているようだ.子供の多くが車やオートバイで送迎されてくる.バスに乗っていると,大して重くないリュックサックを付き添いの親や祖母が持ってあげているのをよく見かける.

イタリアでは子供は親族から宝のように扱われている.子供を持つと法律でその育成管理に重荷が課せられている.そのせいで晩婚化が進み,少子化に苦しんでいるというのが現状のようだ.

私は交通の専門家なので,小さい頃から歩かせないことの問題が大変気になっている.このままでは,どこに行くにも車になってしまうし,出来るだけ目的地に近いところに駐車することに全力を挙げるようになるのだ.今のローマでの自動車問題を見ていると,子供の頃から歩かせないとさらにひどいことになると思わざるを得ない.

2011年2月15日火曜日

"Parla italiano!"の快感

滞在を始めて10ヶ月が過ぎたが,依然としてイタリア語はそんなに話せない.レベルとしては最初の手応えをつかんだ昨年9月頃から一向に進化せず,最近は自宅に閉じこもってデスクワークをすることが多くなったので,むしろ劣化してきているかも知れない.

それでも,例えば仕事でイタリア人とあった時には,最終的には英語になっても,最初の挨拶や自己紹介くらいはイタリア語で話すように心がけている.ここのところ,イタリア政府の高級官僚にヒアリング調査をしているのだが,ヒアリング対象者は何とか英語が出来たとしても,秘書等に取り次いでもらわなければならず,彼女達はまず英語は話せないのだ.

秘書に,"○○さんと○時からアポイントを取っている○○大学の○○ですが”とイタリア語で話しかけると,"Parla italiano!(イタリア語が話せるんですね)"と満面の笑みで答えてくれ,その後の扱いが非常にやさしくなるのだ."Mi scuci, non so parlarlo e ascoltarlo bene(すみません.そんなに話せないし,聞き取れません)"と答えても,一方的にイタリア語のマシンガンが飛んでくる.

ホテルのチェックイン時にイタリア語で話し始めると,やはり"Parla italiano!"とくる.スタッフ達に私がイタリア語を少しは理解しているようだということが伝わっていて,その後の対応が基本的にイタリア語になることが多く,なかなか疲れる.

それでも,この"Parla italiano!"というイタリア人の喜びの声を聞く度に,何だか相手が少しは認めてくれたような気になって,非常にうれしくもなってくるのだ.こんな気分も,残念ながらもうすぐ終わりだ.

2011年2月14日月曜日

病気への対処法の日伊比較

先々週と先週は,家族内でインフルエンザとおぼしき発熱の連鎖に見舞われた.特に長男は40度近い発熱と嘔吐が続き,慣れない異国の地で大きな不安を覚えた.

日本では,インフルエンザの疑いがあるとすぐにタミフルやリレンザの投与が医師から指示されるようだ.ある薬を飲むとそれが胃腸に負担をかけるので,それを緩和する薬も同時に投与されるといったことも多いように思う.いわば薬漬けで病気を治していくスタイル.

ここイタリアでは,サンプルが少ないのだが,医師も人々も自然治癒を旨としているように思える.薬を出来るだけ使わないようにして,人が持っている免疫力や抵抗力を高めていくやり方だ.この場合,高熱と嘔吐が続いているからと言って泣きついても,「まあ様子を見て下さい」というのが基本の診療になる.嘔吐には吐き気止めを処方せず,「スプーンで徐々に水をあげて下さい」という根気を要求する指示が来る.

一見不安であるが,冷静に考えれば,確かにそれでも最終的には直るのだ.イタリア式では治癒までの日数はかかるかも知れないが,長期的には病気でダウンするトータルの日数が少ないのかも知れない.想像だが,子供が病気の時に親が簡単に仕事を休める環境もその一因だろうし,基本的に近くに住んでいる祖父や祖母の存在も大きいだろう.

日本では子供が病気の時に,親の仕事への影響を最小限にするために出来るだけ日数を短くすることが社会的に要求されているようだ.同時に,核家族化が進み,相談相手のいない不安から極度に医者に頼り,そのせいで医師が疲弊して医師不足になるといった悪循環が生じているのかもしれない.

上で書いたことが正しいのか完全な自信はないが,病気への対処法は,その基本理念だけでなく様々な社会的要因が影響している可能性があるのだと,思わず考えてしまった二週間だった.

2011年2月13日日曜日

日本人学校の持久走大会

2/5の土曜日は,日本人学校の冬の恒例イベントの持久走大会の日だ.この日に備えて,子供達は体育や休み時間や放課後に,たくさん練習したのだそうだ.

私が小学校の時は,持久走大会があったかどうかは忘れてしまったが,長男が昨年度まで通っていた横浜の小学校では,そのようなものはなかったはずだ.生徒数が多いので,管理が難しいのだろう.全校で40名程度しかいない学校だからこそのイベントなのだ.

問題はコース取り.車が縦横無尽に走っている外で走らせるわけにはいかないので,必然的に学校の敷地内ということになる.クロスカントリーと普通の舗装道路が組み合わさった一周350mのコースを取るのが一杯一杯だ.小学部低学年は二周,中学年は三周,高学年は四周,中学部は六周だ.

持久走大会は親が見学可能となっている.この日にあわせてついでに授業参観と保護者総会が組まれているので,ほとんどの親が見学に来ている.自分が子供の立場だったら,持久走なんて親に見られたくないと思うのだが,今の子供達はどうなんだろうか?

天気に恵まれて気温は高めだ.外で見学する親達にはありがたいが,走る生徒さん達はややつらかっただろう.自分の子供が走っていない時間帯は,親達は立ち話に夢中である.子供達はそれを冷ややかに思っていたんだろうな.

さて,我が子達はそれぞれよくがんばった.今の私より早いのではないだろうか? 次男は五日前に高熱を出し,参加が危ぶまれていたのだが,奇跡的に復活して無事に参加することが出来た.長男は大会後にインフルエンザで高熱が続いたので,発症のタイミングが早かったら参加できなかったかも知れない.残念ながら流行中のインフルエンザのせいで何人か参加できなかったのがかわいそうだ.

ついに散髪へ

こちらでやろうと思っていて,なかなかふんぎりがつかずにやっていなかったことの一つに散髪があった.ここまでは二回の帰国時に日本で散髪を行って,髪の毛が増えてきたら,日本から持ち込んだバリカンで髪をすいてもらっていた.

しかし,最終帰国から既に三ヶ月以上経ち,髪の毛の量が我慢ならないレベルまで達していた.ついに禁断のイタリアの床屋に行こうかと一瞬考えたのだが,誰に聞いてもいい印象がないので,日本人が開店している美容室にお世話になることにしたのだった.

電話で2/4金曜日の夕方に予約を取る.その日はまた肩こりから来る頭痛に悩まされ,朝から休養していたのだが,髪を切りたいという欲求が頭痛に勝ち,何とか美容室に向かう.

トレビの泉の側にある美容室に入店.日本人二名とイタリア人一名が働いている.その時パーマをかけていたお客さんはイタリア人のようだ.髪を切ってくれる女性の店長は十二年イタリアにいるらしく,客と流ちょうなイタリア語で話をしている.

美容室なので最初に髪を洗う.その後にいよいよ待ちに待った散髪だ.髪を切ってもらいながら話をする.「イタリアの床屋を是非試してみたかったんですけど,結局ふんぎりがつきませんでした」と言うと,店長は「行かない方がいいと思います」と答えた.やはり多くの人が不満を持っているように,決して思い通りの髪型にならないのだそうだ.

ばっさり髪を切ってもらって無事思い通りの髪型に.これでもう散髪の心配をしなくて良い.最後に肩を入念にマッサージしてくれて,しめて20ユーロである.金曜日はたまたま男性の割引の日で通常は25ユーロだそうだ.それでも安い.

2011年2月12日土曜日

ついにナポリへ(3)

翌日曜日,朝からあいにくの雨である.この日の目玉は地下探検だった.昨年9月の出張時に私は経験している(ブログにも既に書いている)のだが,子供達を連れて行くとさぞかし喜ぶだろうと思っていたのだった.

スパッカナポリの中央部にNapoli Sotterraneaの受付がある.日曜日は10時からなのだが,10時になっても受付が開かない.まあイタリアだからと思っていると,数分後にスタッフがゲートを開けにやって来て思わずホッとする.雨が降っているから少し早く開けてあげようなどとは決して考えないのだった.

ゲートが開いてもどこで受付をすれば良いのかが分からない.最初にイタリア人グループがスタートしていった.「英語ツアーはもうちょっと待って下さい」と言われたので,その通りにしていると,ようやく英語ツアーが始まる.最初にお金を払い(四人で30~40ユーロの間だったかな?),地下空間ではなく劇場跡空間の見学からスタート.ちなみに,ガイドはしっかりとした英語を話すので安心だ.


劇場空間の後に,ようやく地下空間へと降りておく.ガイドの説明によると,地下の岩盤を削りだして地上にナポリの原型となるネアポリスがギリシャ人によって建設され,その後,空いた空間が19世紀くらいまで貯水槽として使われ,その後はゴミ投棄場になったり,第二次世界大戦時には防空壕として利用されたという経緯のようだ.


人一人通るのがやっとの細い地下道をローソクの火だけで歩かせてくれるのだが,なかなかいいアトラクションだ.子供達はスイスイとこの空間を抜けて行ってしまうので,全然追いつかない(笑).100mくらい歩かされて,最後に貯水空間に辿り着くが,地底湖のような趣があって素晴らしい.これでツアーは終了だ.

本当は美術館も見たかったところだが,子供達もいたのでこれは断念して,ナポリを後にしてローマに向かう.

ついにナポリへ(2)

スパッカナポリを西に向かって歩き,Dante広場を抜けて,ケーブルカーの駅に向かう.ケーブルカーに乗って丘の上にあるSant'Elmo城を目指す.入場料は大人一人5ユーロくらいだったか.子供はタダだった.



エレベータで城の上部に登り,広大な広場空間を取り囲んでいる城壁の上に登ると,ベスビオ山,サンタルチア,旧市街,中央駅周辺の高層ビル群といったナポリとその周辺の様子が手に取るように分かって良い.残念ながら曇っていたので,ベスビオ山はやや霞んでいた.また海方向にはカプリ島らしき影が見えたのだが,これも霞んでいてよく分からなかった.晴れていたら,さぞかしいい眺めなのだろう.ここはお薦めである.

ここから別のケーブルカーに乗って丘を下り,ナポリの目抜き通りの一つであるToledo通りを経由して,Umberto1世のガレリアを見学.これはミラノのガレリアを全くまねて作ったかのようだった.ミラノとの違いは,ここがシャッター街のようだったことだろうか.もっとも土曜日午後だったから店を閉めていたのかも知れないが.

Plebiscito広場を抜けてサンタルチア方面に向かう.湾沿いの道はなかなか雰囲気が良いのであるが,天気が今ひとつであったのが残念.その後タクシーを拾って,最大の見所である国立考古学博物館に向かう.

国立考古学博物館は,ギリシャ・ローマの美術に関する世界屈指の博物館をうたっているだけあって,ものすごい所蔵品数である.地下はエジプト関係,地上階は石像の数々,中二階と二階はポンペイなどからの出土品が展示されている.ここはきちんと見ようとするとものすごい気力が必要だ.面白かったのは,中二階の奥にあった当時の性風俗関係の展示の数々だ.どんな文明にもこのような美術品?があるのだと妙に納得する.

土曜日の観光はここで終了だ.夜はホテルで教えてもらったレストランでナポリ料理を十分に堪能したのだった.

2011年2月10日木曜日

ついにナポリへ(1)

1月最後の週末,ついに家族でナポリに向かうことにした.私は9月に出張で行っていたのだが,たった一泊だったし,ワークショップで一日つぶれていたので,観光らしい観光をしていなかった.

ナポリと言えば「ナポリを見て死ね」という素晴らしい景観が思い浮かぶのだが,現在はゴミである.10月末にゴミ処理場建設問題がこじれて,ゴミの運び先がなくなり,街中に回収されないゴミが溢れるという騒ぎになったのだ.ナポリを後回しにしたのはそのためである.最近は街中は問題ないとの情報を多数から得ていたので,満を持して旅行することにしたのだった.

ローマからナポリは車で2時間で本当に近い.街中の交通流はものすごい状態だと常々聞いているのだが,あいにく土曜日で大したことはなくてやや残念といったところ.問題は駐車場.路上駐車は何をされるか分からないので,駐車場付きホテルは必須である.早々にホテルにチェックインして機械式駐車場に車を入れてしまい,市内は徒歩と公共交通で観光だ.

この時点でもうお昼に近い.ナポリと言えばピザということで,有名なピザ屋のダ・ミケーレで名物のマリナーラとマルゲリータ(実はこの二種類しかない)を注文.ボリューム満点で値段も安く大満足.


ピザ屋を出た後にスパッカナポリを練り歩く.例えばフィレンツェと比べると同じイタリアなのかと思ってしまうくらい下町感が溢れている.細い路地には,集合住宅の窓から物干しがニョキニョキ出ていて,ヨーロッパらしくない.一瞬,途上国のような感じを受ける.この狭い空間で,車は申し訳なさそうに走っているのだが,オートバイは我が物顔である.ここでの主役は明らかに後者のようだ.

インターネットが急につながらなくなる

冬を迎えてから,我が家のボイラーの調子がいきなり悪くなったことは,もう何回か書いてきたとおりだが,それ以外は問題なく使えていた.

PompeiとPaestumツアーに行く直前の土曜日朝,最後のメールチェックのためにパソコンを開くが,ネットにつながらなかっていた.その1時間前にはきちんとつながっていたのだが,諦めて旅行に出発.南部は何かと物騒なのでパソコンは持参しなかった.

日曜日の夕方に自宅に戻り,メールチェックを始めるも,依然としてネットにつながってないようだ.設定は全く変えていないし,どうしたのだろう.早速,何が問題なのかを調べ始めたが,無線の問題ではなくADSL自体が機能していないことが判明した.

週明けからネット再開のために業者と交渉しなければならないのかと思わず気が重くなった.復旧は一週間単位の時間がかかってしまうのだろう.オフィスはたまに接続環境が非常に悪くなるので,Skypeが必要な時はもっぱら自宅で行っていたし,家内も日本との連絡にメールとSkypeを多用している.これは困ったことになった.

翌月曜日,私はオフィスに出勤.すると家内から「ネットがつながっている」との連絡を午前中に受けた.特に業者と交渉した訳ではないのだが,とにかく復旧したようなので一安心.ボイラーが故障してシャワーが使えないよりもネットが使えないことの方ががより困るのだと,悲しいことに痛感したのだった.

このADSL障害,こちらの日本人に聞くと,予告無しのトラブルは日常茶飯事とのことで,取り立てて騒ぐほどのことはないらしい.こんなところまで信頼性が低いのかと思ってしまう出来事だった.

2011年2月7日月曜日

せっかくなのでPaestumにも足を伸ばす


1/23の日曜日,前日はPompei遺跡を見てそのまま近辺のホテルに宿泊したので,この周辺で朝から観光が可能であった.実はベスビオ山に登ろうと思っていたのだが,昨日に続いて朝からあいにくの雨だ.天気予報を見ると,南に向かえば晴れる可能性があったので,急遽Paestumに向かうことにしたのだった.Pompeiからは80km,高速道路と一般道路が半々で,約1時間の距離である.


もくろみ通り,Paestumに近づくにつれて晴れ間がのぞくようになる.Paestumは比較的保存状態の良い三つのギリシャ神殿が見所であり,晴天のもとで神殿が拝めそうだ.神殿のある遺跡とセットで国立考古学博物館を見学すると良いのだが,子供がいたので博物館は断念.

さて,そのギリシャ神殿群は確かに素晴らしかった.Agrigentoも確か三つあったと思うが,相互に離れているのと保存状態がそんなに良くない.一方ここは,二つが隣接し,残りの一つもそんなに離れていない.草木が比較的豊富なので,砂漠のようなAgrigentoと比べて潤いが感じられるのもよい.車がないと行きにくいのがやや残念だ.

もうちょっと何とかして欲しいPompei(2)


このPompei,昨年末に雨で遺跡の一部が崩壊した.これだけが理由ではないが,あちこちで補修や保存のための工事が行われている.そのために通路が閉鎖されたりしているのだが,どこが閉鎖されていて,迂回経路はどうなっていてといった案内が一切ないのには閉口した.まあ,やっぱりこれがイタリアである.日本みたいに案内が過剰なのもどうかとは思うのだが...文化財の維持にかけている予算が潤沢でないらしいので,まだ工事をしてくれているだけましなのかも知れないと思い直すことにする.

南西側入口近辺はForoと呼ばれる広大な広場空間だ.遙か昔から,このような空間が都市にとって重要だったのだと改めて認識できる場所である.このエリアには,噴火で犠牲となった人の型が一体だけリアルに残っていて思わず息を飲む.遺跡内は野良犬が生息しているようで,このForoにも多数集まっていて,犬嫌いの私にとってはなかなか落ち着かない空間だ.

Pompeiはベスビオからナポリ湾に向けた傾斜の途中にあるので,基本は南北方向に緩やかな傾斜がある.Foroから遺跡西北端のVilla di Diomedeに向かう道は基本的に登りである.木陰も少ないので,真夏にはかなりの体力と気力が必要だろう.しかしこのVillaには犠牲者の型が数体あるので,やはり見逃すわけにはいかない.

遺跡のコンテンツは,この犠牲者の型と街路構造を除けば,ローマ近郊のOstia Anticaと大して変わらない.どちらにも競技場,広場空間,生活空間,大規模浴場がある.Pompeiの大規模浴場は,今回は閉鎖中で入ることが出来なかったのがやや残念だ.こういう見所は極力閉鎖しないで欲しいものだし,閉鎖中の施設はきちんと入場時に知らせて欲しいものだ.


さて,数年前に日本でPompeiを特集した番組を見たのだが,この時に新たに発掘された,火砕流や噴石から家族を守ろうとする父親や苦しみながら絶命した人といったショッキングな型を見た記憶があった.それをずっと探していたのだが,ここまでに全く遭遇しなかった.そこで受付でもらった分厚いパンフレットを再確認すると,何と我々が入場した入口に比較的近いところにあったようだった.閉場になると困るので,慌ててその場所に向かう.もう少し展示方法を考えた方がいいと思うが,屋外のガラスケースの中にそれらはあった.それらはまさにテレビで見たあのショッキングな犠牲者の型であった.

もうちょっと何とかして欲しいPompei(1)

1/22に,まだ手を付けていなかったPompeiに行った.ローマからは250kmくらい,高速を飛ばせば2時間もあれば到着できる.この近さならいつでも行けると思っていて,ここまで後回しになったのだ.

しかし,当日の天気は朝からあいにくの雨.延期しても他に代替日がないので,Pompei行を強行することにした.昼前には宿泊予定のホテルに到着.時間前だったが幸い部屋がもう準備されていて即座にチェックインできた.駐車場も施設内にあるので,これで車がいたずらされる心配をしなくて済む(南部ではこの点は大事).

部屋でテイクアウトピザで簡単にランチを取りながら雨がやむのを待つが,午後1時までにはやまず,意を決して遺跡に向けて歩き始める.幸いなことに,遺跡に入場する頃に雨はやんでくれた.

この遺跡,紀元後79年のベスビオ山の大噴火で埋もれた訳だが,遺跡の大きさは66ヘクタール,そのうち50ヘクタールが発掘済みということらしい.ということで東西が約1.5km,南北が約500mと理解しておけばよい.これほど広大なエリアに見所が多数なので,しっかり見ると一日仕事である.

観光バスや車で直接来る場合にはメインの南西側入口から入場するらしいのだが,我々はそれとは反対の南東側入口から入場する.そのため,円形競技場からスタートして,徐々に西に向かい,南西側入口付近から北上するというルートが基本となる.

南西側入口周辺ははっきり言ってパッとしないのだが,遺跡中央部に近づくにつれて,往時のままの街路と沿道家屋が目に入ってくる.私は土木屋なので,やはり街路の様子には心を打たれる.ローマ式街道には,当時から既に歩道や横断歩道といった概念があったのだ.目抜き通りだけではなく,それらへ接続する街路も,規模の差はあれ,同じ構造となっているのだ.

目抜き通りの沿道家屋には,今で言う立ち飲みバーのカウンターといったものを多数見ることが出来て面白い.ただ,遺跡中央部はどこも見ても同じように見えるので,そのうち飽きてくるのが玉に瑕だ.

セックススキャンダルでやめない首相を持つイタリアって...

ローマを去る日まで一ヶ月半を切った.お陰で公私ともに忙しく,ブログ更新が滞っている.ネタはあるのだが各時間はない.

先月中旬に,イタリアの政界に再び激震が走った.首相が18才未満のコールガールを何度も自宅に呼び,多額の口止め料を要求されたというのだ.これまでも数々の暴言やスキャンダルで定期的に話題を提供している首相である.「またか」という感覚だ.

しかし,こんなに恥をかいても(恥と思っていない可能性も高いが)首相の座から降りないのは,正直言って驚きを隠せない.首相をやっているのは,これまでの行状で逮捕されないように,自分に有利な法律を作るためであるという信じられないうわさもある.ここまでくると,このうわさはかなり当たっているのかもしれないし,最終的には裁判所で違法判決が出たようだが,現実にそのような法律を多数通してきている.

日本で同じことをやったら最低限政治生命を絶たれ,社会的にも復帰できないだろう.ベルルスコーニは何でこれで首相を続けられるのかが大きな疑問だ.

この疑問を,最近親しくなったイタリア人(子供の同級生のパパ)に投げかけてみた.彼の顔を真っ赤にして,「私も信じられないが,どうしようもない」という怒りと無力感を吐露するのみだ.彼がインテリ層かどうかは不明だが,日本を含めた外国の状況をよく知っているようなので,このような首相を担ぐことを苦々しく思っているようだ.ママ(日本人)は「あの抜け目なさやずるがしこさに一般のイタリア人は惹かれるんですよ」と言っていたが,いくつかの書籍でもこれに相当する分析を見たことがあるので,一般的な理解なのだろう.

それにしても毎度情けなくなるのは与党の議員である.昨年末も不信任決議で最終的に反対に回った議員も多いし,今回も与党議員から威勢のいい声が聞こえてこないのだ.首相からの金銭援助がよほど魅力的なのか,あるいは裏から命を狙われているのか,実態はこの辺にあるのではと感じる.

2011年1月31日月曜日

イタリアの役所:限定的な情報公開,言語の壁,内向き指向

何度も書くが,滞在が残り少なくなってきた.さすがにものすごく焦っている.「ほとんど知られていないイタリアの交通事情を調べてきます」と言って出国してきたが,あまり調べているとは言えない状況だ.

11月末に,日本大使館や現地企業の方々で構成している産業研究会に講師としてお呼ばれしたので,イタリアと日本,ローマと東京を統計データで比較して,それらの交通システムのマクロ的な特性を探るような話題を提供した.その準備の時に,日本の国土交通省に相当するイタリアのインフラ運輸省のホームページを,目を皿にして政策や施策の状況を閲覧しまくったのだが,情報はほとんどイタリア語だし,情報そのものがあまり公表されていないので,大変難儀をした.

関係各位が私がイタリアに滞在していることを知っているので,多数の原稿執筆依頼が入り込んでいる.少しはヒアリング調査でもかけないと満足な原稿が書けそうにないないので,12月上旬に,大使館に協力を依頼して,インフラ運輸省の政策担当者にヒアリング調査の依頼をかけることにしたのだった.

各種調整の結果,1/13に最初のヒアリング調査を行うことになった.壁になったのは言語である.今日現在までに4部局にヒアリングをかけたのであるが,そのうち3つは「英語が出来ないので通訳を付けて欲しい」とのこと.仕方ないので通訳を用意してヒアリングに臨む.

通訳付きのヒアリングは,こちらも気分が楽なのだが,時間がかかるのが難点だ.担当者もせいぜい2時間付き合ってくれるのが限度.こちらが尋ねたいこととは違う内容を話し出すこと多々あるので(イタリア人はしゃべりたいことだけをしゃべる傾向にあるかも?),ヒアリングのコントロールに大変難儀することになるのだ.

ただ,このようなことは事前に想定できたので,後で裏を取るために,「もし対応する文献があれば,イタリア語のみでも全然構わないので,それをご提供頂ければここでコメント頂かなくても結構なのですが」と常にお願いしている.それでも多くのケースで,「適切な資料は存在しない」と言われてしまうのだった.そんなわけでヒアリング調査は進んでいるが,肝心の有益な情報が取れているのかどうか,大変心配な状況だ.はぁ,どうしよう.

ヨーロッパの政策や施策の先進事例を調べるために,これまでに何度もヨーロッパ各国でヒアリング調査を実施してきている.しかし,イタリアは今回が初めてだ.これまでにも何回か調査の依頼をしたことがあるのだが,全部無視されてきたのだった.他国の担当者は大抵きちんと対応してくれるので,そのギャップに不自然さを感じていた.無視される理由の大部分は,英語で対応できないから無条件ではねつけられていただけかも知れないと,今回改めて感じた.

また,「あなたの国の政策を是非知りたいです」といってくる研究者や実務者がアポを取ってきた時に,全力を挙げて対応するのが国際的な常識だと思っているのだが,どうもイタリアは「他国に自国をいいと思って欲しい」,「他国がどうなっているか状況を知りたい」といった感覚に欠けている印象が強いと感じる.「周辺諸国と比べた時のイタリアの政策の特徴は?」と尋ねても,「他国の状況は知らないのだが」と言われることが多いのだ.

世話になったClioとお別れ,そして新しいClioとご対面

1/12は,夏から160日間の契約で使用していたClioを返却する日だった.使用開始後三日後にして窓ガラスを割られ,一ヶ月前はタイヤのパンクで三週間ほど遠出を阻まれた以外は,目立ったトラブルもなくこの日を迎えたのだ.

総走行距離は約8,000km.シチリアやトリノまで足を運んだ努力の結果である.パンクのトラブルがなければもう1,000kmくらいは走っていたかも知れない.本当に元気に活躍してくれた.お陰でこちらでの生活が格段に豊かになった.感謝の気持ちで一杯である.

返却は受け取り場所と同じ場所だ.事前に返却時刻を調整して,日本人らしく定刻に現場に到着.担当者が車の状態をチェックして,いくつかサインして返却手続きはあっけなく終了だ.センチメンタルな気分に浸れないほど短い.

今度はその日からお世話になる後継車の受け取り作業だ.RenaultのEurodriveでは同一個人が年間最大160日間しかレンタルすることが出来ないので,今度の車は家内の名義にしてある.もちろん名義上だけで,運転者は私.

今度のClioは排気量は同じだが,スポーティー仕様ではなくなっている.変速も5速まで,タイヤは”特殊”ではなく普通のものである.クラッチも以前のと比べると柔らかくてぺこぺこだ.ボディー色はガンメタリックからシルバーになった.地味だが汚れが目立たないのがいい.帰国まで70日間の契約,費用は19万円くらいだったと思う.今度の返却は何と”パリ”を予定している.

ついに指圧を受ける

1/11,この日は朝から頭痛がしていた.原因は分かっていて,肩から首にかけての凝りによる血行障害である.ノートパソコンによるデスクワークが増えてくると発生する持病のようなものだ.

こんな時,ここローマでも指圧を受けることが出来るらしい.以前に書いた日本人学校のバザーにも,指圧が出展していたのでその存在は知っていたし,日本人会の会報にもローマ指圧センターの広告が出ていたのを確認していた.しかも技師は日本人であるので安心だ.

この日の頭痛で,ついに指圧センターに世話になることに決めた.電話をかけると日本人技師が出てくれて,日本語でアポを取り,夕方5時に診療所に来るように指示を受ける.

この診療所は,何のことはないマンションの一室である.住所からこのマンションの場所を特定するのが難しく,その近くで10分くらい歩き回って,ようやく診療所の入った建物を発見.指定時刻から5分を過ぎているが,まあイタリアだからこのくらいは遅刻のうちに入らない.

早速技師に面会.もう二十年くらいもローマで指圧を開業しているらしい.奥さんはイタリア人のようだ.体格がいいので,きっと力強い本格的な指圧が受けられるのだろうと期待したが,果たしてその通り.1時間の施術後に,(慢性的なので完全には直らないが)施術前よりは格段に首と肩の筋肉が柔らかくなった自分がいた.料金は日本人価格で10ユーロ割引の50ユーロ,破格だと思う.

ローマ日本人会の新年祝賀会

多忙に付き更新が追いつかないのでもう古い話になっているが,1/9にローマ日本人会の新年祝賀会なるものに出席した.毎年の恒例だそうで,私は今回一回しか参加できないので,参加してみることにしたのだった.

場所は日本人学校の体育館.参加者(百何十人だったかな?)の大半は日本人であるが,イタリア人も十名くらいはいただろうか.大使館公使のご挨拶,理事の紹介等の儀式を粛々とこなし,日本らしく鏡割りも行い,乾杯して宴会スタート.

これも日本らしく寿司が大量に並んでいて,鏡割りした日本酒と共に食すと,つかの間だが日本を思い出す.学校の先生方や関係者,大使館員や企業で知り合った方々と談笑し,冬休みのアクティビティーを自慢し合う.

この祝賀会の目玉は,出席者のほとんどが当たる景品の抽選会.企業などから景品が提供される.今年は参加人数が例年より少ないらしく,全員当たりがでるようで,何が当たるか楽しみだ.

結局,私が当たったのは三十人に当たる日本酒だった.景品には「ロンドン往復航空券」や「日本往復航空券」,「タイヤ四本セット(某B社の提供)」という,当たってしまうと扱いに困るものがあって,これらに当たってしまわないでホッとする.なぜか,Rimowaのスーツケースが多数景品となっていたのだが,せっかくだからドイツではなくイタリアの旅行カバンにならないものかと苦笑する.

祝賀会は二時間もしないで無事終了.何はともあれ,一日くらいは日本を感じることが出来てよかったと思う.

2011年1月26日水曜日

塔の街San Gimingano

翌1/7,夜にローマで来客と食事をする予定になっていた.朝フィレンツェのホテルをチェックアウト.途中でまだ足を運んでいない周辺のメジャーな街として,LuccaとSan Gininganoがあった.Luccaだとローマから遠ざかってしまうので,今回はSan Giminganoに行くことにしたのだった.

フィレンツェからは車で1時間もかからない.早々にSan Giminganoに到着.城壁外の大型駐車場に車を泊めて,徒歩で旧市街中心部へ向かう.この街は,最盛期には70本の塔が建設されていたのだが,現在はそのうち20%の14本が残されている.

街の大きさは南北1km,東西500mといったところなので,全て徒歩で済ますことが可能だ.ただし,中部イタリアの都市と同様に,坂が多いので要注意だ.

結論から言うと,ここでは一切の施設に入らず,目抜き通りを散策しながら林立する塔を眺めて一時間もせずに観光を終了した.塔も,ボローニャの斜塔やフィレンツェのGiottoの鐘楼を見た後なので,高さも今ひとつの感だ.それでも密集しているので,少し離れた所からの眺めはユニークだろう.

ここからローマまでは約300km,直行すれば3時間もかからない距離である.午後3時頃にはローマに到着.

再びフィレンツェへ

1/5夕方にフィレンツェ郊外の四つ星ホテルにチェックイン,夜は有名レストランで牛肉と赤ワインを堪能.トスカーナは本当に食事が美味しい.

翌1/6は,10月にフィレンツェを観光した時に行けなかった施設をつぶすことにした.子供達が「前回登らなかったからGiottoの鐘楼に登りたい」と言っている.これはDuomoの脇にあり,そのクーポラより少し低い高さまで登ることが出来る.前日もボローニャで塔に登っているし,正直言って辟易していたのだが,子供達のごり押しに負けて,登頂を決意する.この日は年に数日しかないクーポラが休みの日なので,混雑しないうちに朝一番で最初に登っておくことにしたのだ.

この鐘楼も400段以上ある.途中に踊り場が三箇所くらいあったと思うが,それぞれで小休止して頂上を目指す.途中で鐘が鳴り,そのものすごい音量にびっくりしたがやはり感動するものである.踊り場の一部に大きな穴が空いていて,そこに金網が張ってある.そこから下を見ると,少し足がすくむ.階段の歩幅が狭いので,螺旋階段部分は非常に歩きづらいので要注意(下りは足も疲れているし,転びそうで怖い).

やがて頂上に到着.ここの眺めもクーポラに引けを取らない.しかも,誰もいないクーポラという珍しい写真も取ることが出来た.

次に向かったのはAcademia美術館だ.ここはミケランジェロのダビデ像が有名だ.このコピーは市内二箇所で既に見ているが,今回はようやくオリジナルを見ることが出来た.実物は想像以上に大きくてびっくりする.ガイドブックに載っているこの手の作品の写真は,そのスケールを感じることが出来ない.

次に,前回は休館日だったPitti宮.ここは美術館コースと庭園コースを選ばなければならないが,もちろん美術館コースだ.美術館では,たまたまカラバッジョ展も同時に見学することができた.美術は明るくないが,そんな私でもカラバッジョの作品は素晴らしいと感じる.難点は,子供に見せるには絵の内容がえぐい(ナイフで切り落とした生首を持っている絵など)ことか.

美術館に来たかった理由は,内部のPalatina美術館にあるラファエロの「小椅子の聖母」を見たかったからだ.長い見学コースの終わりの方でご対面.想像通り,これまでたくさん見てきた聖母子の絵の中では,一番映えて見えたので感激.

夜はホテル近くのレストランで,やはりトスカーナ料理を堪能.あと二ヶ月を切った滞在でもう一度このエリアに来たいのだが...

ボローニャでも”お上りさん”

1/5は次の宿泊地であるフィレンツェに移動.その途中でボローニャに立ち寄ることにした.ミラノからは200km,高速を飛ばせばわずか2時間だ.しかし,中心地である歴史地区近辺の駐車場に向かうのにやや苦労した.高速インターから駐車場マークの指示通りに走行したが,同じ所をぐるぐる回る羽目に陥った.どうもイタリアの大きな街の駐車場誘導はなってない.

何とか大規模駐車場を見つけて駐車完了.そこはたまたま8月8日広場だったので,旧市街ど真ん中の市庁舎までは歩いて1kmもない.早速市庁舎エリアに向かう.Indipendenza通りを南に進んで行ったが,赤茶けた街並みが展開し,そこに上品なワインレッドのバスが行き来していて,その色の選択に感激.

程なく市庁舎に到着,早速内に入る.そこは図書館などの公共施設があって,外装は中世だが内装は近代的で,なかなか美しい.わずか数分なので立ち寄ることを薦める.次に向かったのは市庁舎側のSan Petronio聖堂だ.これは外観が未完成である聖堂として有名だ.しかし,改修工事中で肝心の外装は幕に包まれていてガッカリ.私は著名観光施設を訪れると工事中であることが多いのだが,その面目躍如と行ったところ.

次に向かったのは,聖堂から5分くらいの所にあるSant Stefano教会群だ.様々な建築様式が合わさって出来たものらしく,回廊もきれいそうなので是非見たかったのだが,残念ながら閉場時間を過ぎていた.ガイドブックでは12時半までと書いてあっても,行ってみると12時終了であることがこれまでも多かったので,うかつだった.

仕方ないのでここでランチ休憩.有名レストランで名物のボロネーゼを堪能してから,いよいよ斜塔である.市庁舎から300mくらいの所にあって,二本の塔が林立している.そのうち片方は傾いていて登れない.もう一方の高い塔はもちろん登頂可能だ.我々も,一昨日のミラノDuomoに引き続き,再度お上りさんに.

この塔は約500段の階段を昇らなければならない.中空の塔の内壁に付いている木製の階段を延々と昇る.途中で五箇所くらい踊り場があって,そのせいでどこが終点か推測できないのだ.降りる途中ですれ違った人達に,「まだ半分だ」などど教えてあげると絶望的な表情を見せる.

元気な子供達にくっついていって,無事登頂完了.ここからの景色は,スケールは違うが,フィレンツェのDuomoのクーポラから見る景色に近い.赤茶けた屋根が統一感を持って続いている様子は圧巻である.

ここでボローニャ観光を終了,フィレンツェに向かうことにした.

2011年1月24日月曜日

とんでもない対応のトリノの王宮

翌1/4はミラノから日帰りでトリノに向かうことにした.距離は150km弱なので,高速道路で2時間もかからない.トリノは10年くらい前にある学会に参加するために出張で行ったことがあるのだが,この時は観光をほとんどせず,しかもホテルが足りずに市内に取れなくて,鉄道で1時間くらいのところにある街に宿泊を余儀なくされた.冬季オリンピックまであと数年,こんなんで大丈夫かと思ったものである.
今年はイタリア統一から150周年だ.主導したのはトリノを首都とするサルデーニャ王国.そのため,最初の首都はトリノに置かれた.数年ごとにフィレンツェ,ローマへと移動してしまったので,わずか数年の栄光だ.

近代のトリノの発展はフランスの影響を強く受けている.街並みは統一感の取れた見事なバロックだ.バロック都市は実は個人的には余り好きではないのだが,ここまで統一感があると素直にその良さを感じざるを得ない.

さて車をポー川近くの大規模駐車場に泊めて,歩いて中心部へ向かう.最初に目指すのは,何よりも世界遺産の対象となっている王宮である.王宮の券売所でチケットを購入するが,ガイドが付く時間制のようで,午後2時からの入場と書いてある.仕方ないので,それまでは街をぶらぶらして時間を過ごす.

いよいよ2時に.しかし,どこに行っていいのか,館内に全くインストラクションがない.あるドアから入ってそこにいた係員にチケットを見せると,入ることが出来た.入ったエリアはイタリア統一前後のサボイア家の物語が,細かく分かれた豪華な部屋の中に,展示品と共にパネルで紹介されている.「確かガイドツアーがあると聞いていたのだが」と思いながら,その展示コーナーが終了.次のポイントには階段を上がるらしいのだが,そこで係員にチケットを見せると,「あなた方のチケットはここは対象外」というではないか.チケットを買う時にそもそもチケットの種類を聞かれていない.結局,チケットに書いてあった時刻は実態的にはどうでも良かったことが判明.世界遺産を名乗っておきながら,この扱いには心底怒りがこみ上げてきた.
こんな街からはとっととおさらばして,最後に郊外にあるSuperga聖堂に立ち寄る.ここはサボイア家の菩提寺で,これも世界遺産の対象の一つ.が,正直言って,大したことはないと感じた.と言うわけで,久しぶりにイタリア観光施設のいい加減さに直面した一日だった.お陰でトリノの印象は最悪である.

ミラノの観光をあっさりと終了

ここのところ非常に忙しくて,なかなかブログ更新が進まない.もう1月も24日を過ぎているのに,ようやく年明けのことを書いている.何と一週間ぶりである.

年明け第一の旅行先はミラノである.1/2の夕方に到着して,その夜は運河近くのレストランで食事.翌日一日でミラノを観光するという強行スケジュールである.ミラノの見所の一つと言えば世界遺産の「最後の晩餐」だが,これは事前予約制でアクセスしてみた時には,既に予約枠がなくなっていた.まあ新婚旅行時に見ているし,フレスコ画は実物は今ひとつという感覚なので,よしとすることに.

運悪く1/3は月曜日で,結構な数の施設が休館である.それでも肝心のDuomoは見られるし,子供もいるので,博物館,美術館系はそもそも受けが良くない.最初に向かったのは,個人的に是非見てみたかったSant'Ambrogio聖堂.4世紀後半のローマ帝国末期で皇帝テオドシウスに対して大きな力を持っていたキリスト教の大司教でミラノの守護聖人のアンブロージョを祀った聖堂だ.大きさは大したことはないが,美しいロマネスク様式の建築で,個人的には好きな聖堂の一つだ.

次に向かったのはSforzesco城.残念ながら中の博物館は休館だったが,外観,中庭と隣接する大きな公園を散策しながら見学する.

ここからDuomoに向かうが,その途中でVittorio Emanuele IIのガレリアを通過する.ここは日本で言うアーケード付きの商店街という所だが,その美しさは見事である.見るのは二度目だが,初めての時も日本の商店街もこうならないものかと思ったものだ.

メインディッシュのDuomoはガレリアの隣だ.まずは中に入る.大きな建築物を支える柱が林立し,多くのステンドグラスがやや暗い内部のアクセントとなっている.内部は撮影禁止のはずなのだが,みんな気にせずフラッシュ付きで写真を撮りまくっている.最初はそれらを冷ややかに見ていたのだが,それを見ている係員も何も言わないので,最後はついにカメラを手にとって撮影に加わることにした.

このDuomoは,はやり屋上に上らないと来た意味がないだろう.階段とエレベータがあるが,もちろん階段にチャレンジ.これはそんなに大変でなく,程なく屋上に到着.Duomoの外装を彩る尖塔が林立する様子は圧巻だ.一本一本でも芸術的なのだが,それが100本以上もあるのだ.

Duomoの後は適当にウィンドウショッピングを兼ねて(イタリアのバーゲンSaldiはまだ始まっていない)街を散策して,ミラノ観光はあっさり終了だ.新婚旅行の時も四大都市ツアーで一番印象に残らなかった街で,今回もその印象を払拭できなかった.(子供達はきれいなミラノが好みのようだが)つくづく赴任がミラノでなくローマで良かったと感じた.

2011年1月17日月曜日

ローマからミラノまで高速道路で走って見る

冬休み後半はトリノ,ミラノ,ボローニャ,フィレンツェへ5泊6日の巡業ツアーに出かけた.雪が心配だったのだが,最終的には車で出かけた.結果的には雪に遭遇することなく大正解だった.

最初はミラノに三泊だった.初日の1/2にはローマからミラノまで600kmの移動を敢行する必要があった.そのほとんどが高速道路A1号,日本で言えば東名・名神高速のような路線を進むことになる.ちなみにA1はStrada del Sole(太陽道路)という名称を持つらしい.

ローマからボローニャまでは基本的にはカーブと坂が続く.A1はナポリまでであるが,ローマとナポリ間は確か全部片側三車線だったと思う.フィレンツェ方面はローマ北ジャンクションから40kmくらいは片側三車線,その先はフィレンツェ市内を除き片側二車線だ.フィレンツェとボローニャ間はこの前も書いたように,東名の大井松田-御殿場間のような感じだが,線形の良い新設道路の建設が進んでいるようだ.

この日は,あいにくフィレンツェ市内のトンネル区間で交通事故が発生,トンネル内なので事故処理がもたつき,4km通過に1時間弱を費やすはめに.

ボローニャを過ぎると,一転して直線が続く道路となる.ドライバーとしては非常に退屈だし,みんな150km/hくらいで一斉に走っているので,徐々にスピード感覚がなくなってくる.うれしいことに,ボローニャからA22号が分岐するモデナまでは片側四車線である.それでも,ドロミテ方面に向かうスキーバカンス客でこの四車線で自然渋滞が発生するのだった.A22号はものすごい渋滞だっただろう.

この渋滞を抜けて,ミラノまで残り150km,あとは一気呵成だ(1時間強で走破!).しかし,景色も代わり映えがしないので,運転は一層退屈である.周辺の車とのデッドヒートで緊張感を高めるしかない.結局,ローマからミラノまで何回かのトイレ休憩を含めて8時間くらいかかった.6時間での到着を見込んでいたが,やはり甘かったようだ.

絶景(絶叫?)リフトに感激したGubbio

午後1時過ぎにUrbinoを後にしたが,Romaに帰るまでに途中でもう一箇所寄れそうな状況だった.そこでGubbioに向かうことにした.Urbinoからは1時間もあれば到達する距離である.Umbria州の州都であるPerugiaから少し北に行ったところだ.

Gubbioの旧市街は斜面に展開しているようだ.斜面を登る街路は基本的には階段状,それと直角の街路は緩やかな目抜き通りという組み合わせだ.斜面下の大型公共駐車場に車を泊めて,旧市街に向けて徒歩で上がっていく.

この街は子供のクラスメートのイタリア人のパパに薦められたのだが,確かに美しい旧市街だった.建築物に使われている石も,赤みが弱くやや白みがかっている.もう8ヶ月も前に行ったPerugiaの街のような色彩かもしれない.宮殿や教会もそんなに有名なものはないようだが,街並み全体としては見ておく価値はあると思った.

何よりも面白かったのは,斜面の遙か上の山頂にあるSant'Ubaldo教会へのアクセスリフトである.これは一度乗ってみる価値はある.鳥かごのようなリフトに最大二名で乗りこむのだ.乗車時に速度が落ちないので,乗り込むのはやや度強が必要だ.座席はなく立ったままで,かごの床からは地面が透けて見える.高所恐怖症の方は非常につらい時間を過ごすかも知れない.リフトからはGubbioの素晴らしい景色を眺めることが出来るが,雨が降ると一転悲惨な状況となるので覚悟が必要だ.

Gubbioも数時間あれば十分に堪能できる.ここからRomaまでは200kmくらいだったと思うので,少し無理をすれば日帰りも可能かも知れない.

2011年1月16日日曜日

坂だらけのUrbino

12/30は3泊したRiminiを朝出発,Romaに戻る途中にUrbinoに立ち寄ることにしていた.UrbinoはあのRaffaelloの生まれた街で有名だ.Marcheというマイナーな州にあり,San Marinoの少し南で相互に近い位置にある.ということは,鉄道では大変行きづらい立地である.事実上,車でないと難しい.

Riminiから高速道路,くねくねした幹線道路を経由して1時間くらいでUrbinoに到着できる.この街は,このあたりの多数の街と同様に,崖を利用した天然の要害に立地している.大規模駐車場は崖下で,そこからはエレベーターで旧市街まで上がっていく.我々はエレベーターの存在に気がつかず,近くの門から長い上り坂を歩いて,街の中心であるRepubblica広場にアクセス.

何をおいても,まず見るべきはDucale宮殿だ.広場からさらにちょっと登って宮殿に到着.ここは美術館を兼ねており,宮殿の多数の部屋を見ながら同時に展示品を見ることになる.きちんと見ると結構時間がかかるが,ここの見所である寄せ木細工の書斎と「ルネッサンスの理想都市」,いくつかのRaffaelloの作品にターゲットを絞ってそそくさと見学.

見学を終えて外に出ると,あいにくの雨だ.次に向かったのはRaffaelloの生家.これはその名の通り,Raffaello通りの前にある.行ってみるとこじんまりとした家で,入場料もその割に高いと感じられ,何より(お昼の)終了時刻に近かったので,見学は断念.ちなみに,この通りはものすごい急である.自分の足を使って即席で測ってみると,勾配は16.6%である.路面凍結時には,とんでもない光景が展開しているのかもしれない.

このRaffaello通りを登り切ってから左折して少し行くと,城址公園のような場所からUrbinoの街がきれいに眺望できるので是非行っておきたい.その後は再び坂を下って,見るべきフレスコ画があるらしい近接する二つの礼拝堂に向かうが,これらは残念ながら午前中のみ.駐車場に近かったので最初に行っておくべきであった.

これ以上は見所がないようなので,予定より早くUrbinoを後にすることにした.なお,街はさすがに有名なだけあって建築,街路ともに非常に美しい.ただし,坂だらけで,急なのに階段になっていない箇所が多いので,歩きにくい,滑りやすい靴は厳禁だ.

ちょっと気になるルビコン川

RiminiからRavennaへの移動の途中に,今回の滞在で可能であれば見ておきたい所があった.それは,ユリウス・カエサルが「賽は投げられた!」と叫んで超えたあのルビコン川だ.古代ローマの歴史の本をたくさんを読んできた私にとっては,聖地の一つのようなものだ.

ローマといえば塩野女史,彼女の「ローマ人の物語」のシリーズのガイドブックに,ルビコン川のちょっとした紹介があったが,決して大河ではなく単なるドブ川のようなので,ちらっと見るだけでいいやと判断.

RiminiからRavennaまで,今回は国道のSS16号を行くことにした.高速道路経由では遠回りだし,イタリアの都市間は普通の国道も高速道路のようなものだから.SS16号のRiminiから15kmくらい行ったところに,それはある.

ルビコン川,現在はRubicone川という.本当に高速道路のようなSS16号の,Rubicone川を超えた直後のランプで降り,併走する一般道路でRubicone川にかかる橋のたもとに到着.確かに現在はドブ川で,幅は10mくらいだ.河口に近い区間でこれなので,上流は小川のようなものだろう.

きれいな川であれば,馬に乗って「賽は投げられた!」といってローマ方向に突撃を開始するようなちょっとしたロールプレイングをさせてくれても良さそうなものだが,この汚さではお断りだ.世界史の分岐点になった所であるし,きちんと保全してちょっとした観光地として整備することは出来ないものだろうか?

2011年1月15日土曜日

モザイクツアーが堪能できるRavenna

San Marinoの翌日はRavennaへ向かう.拠点としたRiminiからは車で1時間もあれば到着できる.Ravennaは西ローマ帝国崩壊後に現イスタンブールを拠点としていた東ローマ(ビザンチン)帝国のイタリアの拠点だった.そのお陰で,キリスト教は背景としたビザンチン文化が花開いた街だ.

Duomo側の大型駐車場に車を泊め,早速主要観光施設を巡る.Duomoを見た後に,その横にあるNeonianoの洗礼堂に入る.見所は天井と壁面に展開する紺を基調とする壮大なモザイク画である.これらは色ガラスを丹念にはめ込んで出来ており,至近距離ではなく遠くから見ると本当に美しい.

次に向かったのはやはりDuomoに隣接するMuseo Arcivescovile,大司教の博物館だ.ある部屋の天井に立派なモザイク画が展開する.これも確か紺色基調だったかな? 残念ながら写真撮影は禁止だった.その他は,通常のよくある古代の出土品や中世以降の美術品を展示した博物館だ.

次に向かったのはSan Vitale教会とその敷地内にあるGalla Placidia廟だ.Duomo地区からは歩いて10分くらいだ.教会は後陣のモザイク(緑基調),廟は天井・壁面に展開するモザイク(紺基調)である.

ここまででも十分にお腹いっぱいだが,まだまだモザイクがある.次の目的地へは目抜き通りを通過する.その途中で惣菜屋でRavenna名物のPadina(分厚いピザ生地のサンドイッチといえばいいか?)をテイクアウトして食べ,お腹も満たされる.

次の目的地はSant'Apollinare Nuova教会だ.これはSan Vitale教会から15分くらい歩くだろうか.ここは黄緑色のモザイク.とにかく,Ravennaはモザイクづくしである.そんな人がいるとすればマニアにはたまらない街だ.

もう一つ見事なモザイクがある教会があるのだが,車でないと難しいだろう.我々が車なのでもちろんそこに向かう.隣町ClasseにあるSant'Apollinare in Classe教会である.結論から言うと,ここのモザイク画一番素晴らしかった.これまで来て見たものとは格段に鮮やかさが違う.最後に良いものを見た.

ここまでで5時間くらいだっただろうか.一日あれば十分堪能できる街である.

2011年1月12日水曜日

雪化粧のSan Marino(2)

政庁前のLiberta広場から次に向かったのはRoccheと言われる塔を含んだ要塞空間だ.最初は第一の要塞であるGuaitaだ.ここまではきつくはないが緩やかでもない坂道を登って行かなければならない.その途中には商店も多く,やや賑わっている.Guaitaと第二の要塞であるCestaが両方入場できる割引共通券が購入できたのだが,間違ってGuaitaのみの入場券を買ってしまう.この時は6歳の次男ののみ無料.

ここからの眺めは最高だ.晴れてはいたが,残念ながら霞んでいたので,アドリア海を見ることが出来なかった.それでも十分絶景である.塔は恐がりの子供や女性は頂上まで行くのに恐怖を覚える箇所があるので要注意.

次にCestaに向かう.その間の道はちょっとしたアスレチックのようだ.階段を下った後は長いそれなりに急な上り坂が続く.Cestaの入場時,今度は大人のみの徴収である.この担当者によって判断が変わるところがイタリア的だ.Cestaは中世の軍事博物館を兼ねていて,これもそれなりの見所だ.ここからはGuaitaと第三の要塞であるMontaleが見え,またまた絶景だ.崖下に引きずり込まれそうな錯覚に陥る.

Montaleへのアクセスは大変そうだったので,ここであきらめて再び政庁広場方面に戻り,大聖堂を見学.ここは撮影禁止だったので記憶だが,白い内装を基調とした,なかなか立派な施設であったと記憶している.程なく夕暮れ時.中世の街並みは,その暗さで一層引き立っていたような不思議な感覚があった.

滞在は3時間余りだったが,これで十分楽しめる規模である.こちらでつかっているMichelinの緑本ガイドでは,これだけの眺望を持ちながらSan Marinoは一つ星であったが,実は長時間楽しむほどの規模ではないからなのかもしれない.

雪化粧のSan Marino(1)

翌28日は,朝からSan Marinoに向かうことに決めていた.Riminiからは30kmくらいで,車で40分もあれば到着する距離である.標高が700mくらいとやや高いので,天候が心配である.天気予報によれば28日は晴,確かに朝から晴れていたので,勇んでSan Marinoに向かうことにした.

Riminiからのアクセス道路は混雑もなく,順調に国境越え.もちろんゲートも何もないが,走っている車の大多数がSan Marino共和国のナンバーになる.麓の税関地区からくねくねした上り坂になる.これを5kmくらい進むとケーブルカーの駅に到着する.ケーブルカーに乗らなくても車で旧市街に登ることが出来たようだったが,路面凍結が怖いのでここからケーブルカーに乗ることにする.

駐車してケーブルカーの駅に向かう.しかしケーブルカーが動いている気配がないし,駅員も乗客もいない.不審に思い掲示を見てみると,「12/25~31は午後しか動いてない」と書いてある.San Marinoもイタリア流か,と溜息をつくが,仕方ないので一度ホテルに戻り出直すことにする.

午後2時半のケーブルカー始発に間に合うように,再度ケーブルカー駅に到着.しかし,何とケーブルカーは既に動いている.掲示を再びよく見ると,私のイタリア語の勘違いで,午後しか動かないのは25日と31日であった.せっかくのSan Marinoで時間を無駄にしてしまった.

気を持ち直してケーブルカーに乗車.これは素晴らしい景色が眺められるので,是非乗車を薦めたい.程なく旧市街側の駅に到着.そこから先は,一気に中世の香りがする街である.雪が残っているので,幻想的な雰囲気が楽しめそうだ.

最初に向かったのは政庁Palazzo Pubblico前のLiberta広場.全然人がいないと思ったのだが,想像以上に人が多い.それでも大変静かである.掘立小屋がたくさんあったので,Nataleまではマーケットが出ていて,少しは賑わっていたのだろう.この広場からの眺めはいきなり感動するが,それはちょっとした序章だ.

冬にRiminiに行ってみた

ようやく年末年始の旅行記を開始.先日書いた滞在許可証の審査を12/27の朝に済ませて,その足で車でRiminiに向かう.距離はL'Aquilaを経由してアドリア海に出てから北上,約400kmだ.

Riminiは夏のリゾート地として大変有名だ.何故冬に行ったのかというと,その近くのSan MarinoやRavennaに行きたかったからだ.夏の間は高額のリゾートホテルも冬ならば安いだろうという判断もあった.果たして,四つ星ホテルが家族四人で一泊何と90ユーロ未満.ホテルに室内プールが付いていて,朝食込みでこの値段である.大変ラッキー.

次の問題は,果たしてリストランテがオープンしているかどうかだが,結果から言うとこちらも問題なし.シーフードがリーズナブルな価格で食べられる.どこのレストランに行っても,メニューにロシア語が併記してあって,しかも店員が客とロシア語らしき言葉を話しているのを聞くと,冬でも極寒の地ロシアからの安定したリゾート需要があるのかもしれない.だが,Riminiの冬はそんなに暖かい訳ではなく,Romaよりは確実に寒そうだ.

Riminiの中心部は,かつての城壁に囲まれた,車両の乗り入れが極度に制限されている旧市街であるはっきり言えばイタリアによくある都市である.見に行ったのは27日夜であったが,まだクリスマスであるNataleの余韻を引きずっていて,街路に華やかなライトアップが施されていた.かつての皇帝アウグストゥスとティベリウスが建設したというPonte di Tiberioという石橋は,その当時のものがそのまま残されているのかは分からなかったが,なかなか美しい橋だった.残念なのは,歩道が狭いのに車の交通量がものすごいことか.ぼやぼや写真を撮っているときっと車に轢かれてしまう.

2011年1月10日月曜日

冬のバーゲン:アウトレット編

イタリアの新年と言えばバーゲン(イタリアではSaldiと言う)である.これは市ごとに初日と終日が決められている.2011年のローマは1/6の祝日が初日であった.

せっかくイタリアにいるので,多少はイタリアの高級品を手に入れて帰りたいのが人情だ.夏のバーゲンは暑いのとどうせ安い夏物衣類なので,個人的には余り興味がないのだが,冬は高い冬物衣類が安く買えるので興味ありありである.

1/7まで旅行に出かけていたので,1/8に早速バーゲン商戦に参戦することにした.バーゲン開始後最初の土曜日なので,恐らくどこも混んでいるだろう.ここで勝負を掛けないと,目を付けていた商品が売れてしまうかも知れない.

朝一番の客がどんなに遅くても夕方までには帰るだろうことを期待して,その頃にアウトレットに到着するように出かけることにした.最近,イタリアでも大都市周辺もアウトレットがものすごく増えているようだ.ローマ近郊では,北に50kmくらいのSoratte,南に30kmくらいのCastel Romano,東に40kmくらいのValmontoneが大きなものだ.私が狙っているブランドはValmontoneにしかないので,そこに向かうことにした.

Valmontoneのアウトレットは高速出口から5kmくらい走ったところにある.そのためか,高速出口渋滞は発生していなかった.ここには平日に数回来たことがあるのだが,いつも閑古鳥が鳴いていた.「そんなに混んでないのかな?」と思ったが,やはりそれは間違い.

アウトレットに近づくとやはり車列が出来ている.日本と違うのは,施設手前の道路に勝手に路駐して,徒歩で現場に向かう人が多いことだ.案の定,正規駐車場の入り口付近に来ると,駐車スペースは満杯,ハゲタカのように出庫を待つ多数の車,誘導しているが全く機能していない警備員,である.瞬間的に入り口をパスして,前面道路を少し行くと路駐できるスペースをいくつか発見することができ,躊躇なくそこに車を滑り込ませる.施設入口までは歩いて2分,超ラッキーだ.

早速中に入る.店舗によっては入場制限を掛けていたが,夕方だったせいもあるかもしれないが,芋を洗うような混雑とはほど遠く,快適にショッピングが楽しめそうで,一安心だ.結局,1時間強の滞在で目的を達成し,帰りもちょっとした渋滞だけで早々にローマに帰還.終わってみればもう少し混乱(特に交通の)を見たかった気もするが...

驚きのセルフガソリンスタンド in Bologna

1月5日,この日は冬休み後半の旅行のほぼ中日で,3泊したMilanoから2泊するFirenzeに移動する日だった.その途中で,まだ足を運んでいなかったBolognaに立ち寄ることにした.この様子はそのうち書くことになると思う(旅行記もなかなかに時間がかかるもので...).

今回の話題は,Bologna観光を終えてFirenzeに移動する途中で起きたちょっとしたハプニングである.その時のガスの残量では高速道路の途中で給油しなければならない状況だった.BolognaとFirenzeの間は約100kmで,山間地を通り抜ける(東名高速の大井松田-御殿場間のような線形が80kmくらい続く)ので,サービスエリアも少ないし,燃料も高めである.これは絶対Bologna市内で給油しておくべきだろう.

ディーゼル(ちなみにイタリアでディーゼル何と"Gasolio"と表記してある)の表示価格をチェックしながら,これまでに見送ったスタンドよりも結構安かった所に立ち寄る.今にして思うと安い理由があったのかもしれない.

有人サービスの給油スタンド前で車を停止させる.すると店員がいて,「午後3時まで休みだから,セルフでやってくれ」と言われる.「こんな所まで昼休みがあるのか」と思いながら,仕方なくFai da te(英語でいうとDo it yourself)のスタンドに動かして,給油開始.セルフはスタンドによって入金・返金方法,入金が先か後かが全然統一されていないので,今回もややまごついていると,その店員が,「先にお金を入れるんだ」と教えてくれる.

満タンにすべく50ユーロ2枚を投入し(ちなみにイタリアではディーゼルがリッター1.3ユーロ,無鉛ガソリンで同1.4ユーロくらいだ),いざ給油開始.すると,満タンにならないうちに途中でそれ以上給油できなくなる.このようなトラブルはまず原因は不明だ.仕方ないので,給油ノズルをスタンドに戻す.

今度は返金方法が分からない.すると店員がやって来て,「あそこにレシートが出てるから,これをレジに持って行ってくれ」と教えてくれる.レジのある小屋を見ると閉まっている.何と「午後3時にならないと開かないよ」と言うではないか.時計を見ると午後2時40分だ.数ユーロくらいなら捨ててしまうところだが,70ユーロ近いお釣りなので,是が非でも受け取らなければならない.

結局,予定よりも10分早く店を開けてくれたので10分のロスで済んだ.しかし,これが昼休みに入った直後くらいの時間の出来事だったら,2時間は待つことになるところだった.イタリアのセルフスタンド,ここもやはり一筋縄ではいかない.

2011年1月8日土曜日

またまたボイラー故障

12月30日,前半の冬休み旅行から帰ってきた.二度の不調から復活したボイラーが三度目のダウン.4日間空けていた我が家は暖房も付かず底冷え,シャワーも入れない.

いままでと違うのは,ボイラー下の床が水浸しであることだ.こちらのボイラーは,水圧をかけないとガスに着火せずお湯が沸かないので,水圧を一定以上に保つことがお湯を使う要諦なのであるが,水漏れで水圧がうまくかからないのだ.前回,水圧が低下したら回すようにと教えられたつまみもなぜか回らない.恐らく水が凍っていたのかもしれない.

翌日の大晦日,無理を言ってテクニコに来てもらう.「今日は応急処置だけ.抜本修理は年明けに」ということなった.それにしても彼がつまみを回すと,いとも簡単に回るのだ.水漏れは続いていたが,水圧は元通りに戻った.再び,「水圧が低下してきたら,つまみを回して水圧を上げるように」という指導を受ける.

昨日,今度は5日も家を空けたので,水漏れで水圧がものすごく下がっていた.床は相変わらずビショビショだ.それでも今度は自力でつまみを回すことが出来,無事水圧が復活,事なきを得た.

それにしても,この事態でも大家は機器の更新を全く考えていないようだ.週明けに抜本修理をしてくれるらしいのだが,どうなることやら.まだまだ安心できない冬である.

ようやく同行家族の滞在許可証申請が受理される

新年最初の更新は,年末年始と旅行に出ていたのでもうすっかり過去の出来事になった,例の滞在許可証申請の話である.

12月27日の朝,ついに三度目の出頭である.一度目は郵便局から送ったはずの申請書類を紛失され,二度目は子供を連れて行かなかったので,それぞれ審査が行われなかった.自分自身の滞在許可証申請と併せて四度目.いつ行ってもあの異様な雰囲気にげんなりする.

今回は9時前に現場に到着.すると入口が閉ざされたままで,まだ審査が始まっていないみたいだ.そばにいる他の申請者達もいらつきを見せていて,係員が見える度に「いつ始まるの?」という感じの質問を投げかけている.

9時半くらいだったか,ようやく「小さい子供がいる人達はどうぞ」というアナウンス.今回は子供を同行しているので,このタイミングですんなり入場.私がくっついていっても何の呼び止めも無し,最初からラッキーだ.イタリアでは本当に子供の力は絶大である.

そこから15分くらい待っただろうか,我々の番が回ってきた.ここで年末最後に最大級のラッキーが訪れる.今回の審査員が前回と同じ人だったのだ.前回は,紆余曲折はあったが,「書類は完璧,後は子供を連れてくるだけで受理できる」という結果だったが,そのことも彼は覚えていた.「あの時のSignola(奥さん)か」という反応だった.

家内は指紋をきちんと採られたが,子供達は証明写真の登録だけだ.途中で私に対して,「あなたはどのカウンターで審査を受けた?」と聞いてきた.「うーん,たぶんあそこかあそこかな?」と答えたが,いずれも間違いで正解はさらにその隣だった.申請者の情報が端末間で共有されていないのかと思わず呆れる.

そんな小さいなハプニングもあったが,15分くらいで審査と情報入力が完了.「2ヶ月後に○○の警察署で発行される」ということらしい.しかし,私の時と違って携帯番号を聞かれていない.私の携帯に連絡が入るのか,いちいち警察署に行って発行されているのか確認しないといけないのか,不明である.9月下旬に受理された私の申請も,まだ滞在許可証を引き渡すというSMSでの連絡は今日現在いっさいない.

これでようやく合法滞在に近づいた.