2010年9月30日木曜日

エトナ山:活火山のすごさを体感

シチリア出張ではEtna火山にも行ってみた(観光ではなく視察です).これは標高3,350mのヨーロッパ最大の火山だ.時々噴火を起こす活火山である.南側の大都市であるCataniaは噴火の影響で何度か大きな被害に遭っている.富士市あたりから見る富士山のように周辺に視界を遮る山がなく,遠くからは非常に美しく見える.

Cataniaから中腹のSapienza山小屋地区へ車で1時間弱,標高2000m弱の拠点だ.ここからリフトとマイクロバス(もちろん山岳仕様)と徒歩で標高3000m地点までは向かうことが出来るらしい.リフトとバスで一人50ユーロくらいだったと思う.我々は時間の都合上,リフトのみ.これでも20ユーロ以上したはずだ.

山小屋に向かうアクセス道路から,溶岩流跡の真っ黒な溶岩に覆われている圧倒的な景色を見ることが出来る.近年まで噴火が定期的に起きていることをまざまざと感じさせる.何と,溶岩流跡の上に山小屋やホテルが立地しているのだ.

リフトの終点には小さい小屋があり,そこからマイクロバスに乗り換える.バスに乗らず歩いて昇っていくグループも多い.我々は30分くらい昇ってみただろうか.溶岩が粉々になっていて大きな粒上になった斜面になっているので,大変歩きにくい.辺り一面真っ黒だ.

ガイドブックで,噴火で使えなくなったリフトの替わりにバスで人を運んでいると読んだ気がした.日本なら,例えば浅間山の山中にリフトなど建設しようとするのだろうかと考えてしまった.山登りも立ち入り禁止区域もあるのだとは思うが,立ち入ってもあんまりうるさくなさそうな気がする.自己責任でということかもしれない.危険地帯であることは間違いないが,予兆はあるし,各自が気を付けていれば問題ないという割り切りで観光資源として活用できるのだろう.

シチリア内陸部の不思議な街

先日のシチリア出張で,シチリア島の内陸部の地勢をついでに視察してきた.PalermoからCataniaに向かう高速A19号線はシチリア島北岸を進み,途中から南に進路を変えて内陸部に入っていく.少し行くと,両側にMadonie州立公園が拡がっている.ミシュラン観光ガイドによるとこのあたりの景色がそれなりに素晴らしいのだそうだ.


シチリアでもっとも標高が高いのはEtna山でこれは火山の単独峰だ.それ以外にはそんなに標高の高い山はない.この州立公園のあたりも標高はあっても1000mもないのではないだろうか.この付近には,山深くの崖上などの実に多くの特徴的な街が展開しているのだ.

例えば,州立公園の南西端にあるSclafani Bangi.ここに辿り着くまでに,路面がぼこぼこ(施工不良で修繕も無し)の幹線道路を延々と進まなければならない.途中で車が故障したり,盗賊に襲われても誰も助けてくれないようなところだ.そんな道を進むと,見るのには大変美しい崖上都市が目に入るのだ.そこに行くまでにも,山陰に隠れたような場所に割と大きな街が展開している場所を見つけることが出来る.古代から支配者が何度も変わったシチリアのこと,敵に襲われないように,難攻不落の場所を選んで寄り添って住んでいたのだろう.敵のいない現代ではこのような場所は不便きわまりないのだが,依然として人々が住み続けていることに,ある種の驚きと敬意を感じざるを得ない.

今度は州立公園を東側に進んでいくと,岡の頂上に展開する面白い街を発見(名称は正確に覚えていない).丘上から斜面を下るに従って建物が新しくなるのだ.最初は丘の頂上付近に防衛を考えて居住していたのが,規模拡大と幹線道路へのアクセスを考えて徐々に坂下に街が拡がったと見るのが正しそうだ.頂上付近に住んでいた人は不便なので,坂下の新市街に移り住んでいるのではと想像される.恐らく古い集落を作り替えたり撤去する費用までは捻出できないのだろう.なにか出来るだけ同じ街に住むという執念を痛感させられる.

この日は中央部のEnnaに宿泊した.ここは標高1000m弱に展開する数万人規模の大きな崖上都市だ.アクセス道路は最後は全てきつい上りになるのだ.鉄道駅も崖下だ.朝は深い霧につつまれてなかなか幻想的であった.

2010年9月28日火曜日

Napoliの地下空間:こんなところまである観光名所

先々週にNapoliに出張に行っていた時に,"Napoli sotterranea"という,地下空間に展開する回廊を見学した.Napoliは古代ギリシャ人が開拓した街であるが,その時に地下に展開する岩盤を切り出して,建材として使っていたらしい.こうして出来た地下空間が,古代ローマによって相互に接続され,貯水槽として用いられた.温度が一年中ほとんど変わらないことからその後は貯蔵庫として使われ,第二次世界大戦時には防空壕として使われた.


見学が9名と大人数であったため,単独でガイドが付いてくれた(もちろん有料).Napoliの観光の中心地であるSpacca Napoliにもいくつか入口があるようだが,我々はQuartieri Spagnoli(スペイン地区)にある入口から中に入る.階段をどんどん地下に入っていき,最初の広間のようなところで,この地下空間の概要の説明を受ける(下手するとイタリア語だけかも).

その後,人が一人通るのがやっとの幅しかない通水用通路をくぐり,やがて防空壕として利用されていた地区に到達.ここでは当時の落書き(昭和天皇ヒロヒトの絵まであった!),電気設備の跡,トイレ空間,といったものを見ることが出来る.ガイドもだんだん調子づいてきて,空爆から逃げる時の様子をまねするなど芝居がかってきた(笑).

ある空間でガイドが電気を消して真っ暗になる.「全く何も見えず聞こえない空間はどのくらい恐怖を感じるか?」ということを経験させたかったらしい.2分後くらいに同行者が「もういいんじゃないですか?」と言葉を発して無事終了.

このようにして1時間弱,地下空間を練り歩いた.これはなかなかお薦めだと思う.こんな場所にも面白い観光施設があるイタリア,その長い歴史の重みを感じざるを得ない.日本も歴史はそれなりに長いはずなのだが,果たして...

2010年9月27日月曜日

通りにおける地番の付け方のルールの違い?

ローマに限らず,ヨーロッパでは全ての通りに名前が付いていて,○○通りの×番で住所が特定できるようになっている.この仕組みは道案内に大変便利であることは言うまでもない.こちらに来てからのカルチャーショックは,場所の案内が非常に素っ気ないことだ.どんなレストランや役所や店舗にも,案内地図というモノが一切存在せず,住所が示されているだけなのだ.電話で行き方を聞いても住所を言われるだけだろう.

ローマの通りでは,片方に奇数番号,もう片方に偶数番号が割り振られ,起点側から1,3,5,7と言うふうに増加していくために,場所が容易に特定できるのだ.私は分厚い街路地図を常に携帯しているので,住所だけ教えてくれれば間違いなく辿り着くことが出来る(ローマ内限定).このシステムに慣れると,日本の町丁目表示が異様に不便に感じてしまいそうだ.

しかし,ローマに住み慣れている人は地図なんか持っていない.よく分かっているエリアから一歩出ると,とたんにネットワーク構造が分からなくなるようで,名称標記(建物に埋め込まれている)が徹底されていないケースの多く,「○○通りはどこですか?」と聞きまくっている人をよく見かける.私もこれまでに十回くらいは聞かれる立場に立っているが,まずは聞き取れないので,「イタリア語がよく分からないんですが...」とここだけはイタリア語で答えてジ・エンド.

さて,先日出張でナポリに行き予約したホテルを探していた時に,通りの地番の付番が奇数,偶数に分かれておらず,大変不便な思いをした.ここでは,まず片方に1番から終点まで付番し,もう片方は終点から始点まで付番される仕組みだったのだ.通りの長さがあんまり長くなく幅員が狭ければ,このシステムでもいいのかも知れないが,今回はそうではなかった.ホテルが110番くらいの中途半端な地番だったので,特定するのにやや歩かされた.

それにしても,このような付番の方法はどのような歴史や意図があるのだろうか? 現時点では調べてもよく分からないが,いずれ回答を示したい(希望的観測).

2010年9月25日土曜日

毎日雨降り

ここのところ,一日に一回は雨が降っている.二週間くらいまでは毎日のように見ていた快晴を全くお目にかかることができない.日本の9月の感覚だと雨が降ると蒸し暑くなりそうなものだが,こちらの場合は雨が降るとやや冷え込む感覚がするのだ.

地理で習ったように,ローマは典型的な地中海性気候である.確か「夏は乾燥した熱風が吹き雨量がほとんどない一方,冬はやや雨が多くなる」と教わるはずだ.雨が続いているので,気になってローマの年間雨量分布を調べてみると,9月の月間雨量は60mmくらいでそんなに多いわけではなく,10~12月にもっと雨が多くなるらしい.まだまだ本番が後に控えているのだ.

雨が降らないまでも基本的に曇りがちなので,洗濯物が急激に乾かなくなった.来月以降,夜の居間は半乾きの洗濯物に囲まれることになりそうで憂鬱だ.あの短い酷暑もいまや懐かしい思い出だ.

2010年9月24日金曜日

Questuraへの出頭(2)

審査会場は建物の3階(日本でいう4階)だと言われる.エレベータはなく,階段を昇らなければならない.3階のロビーで,郵便局から郵送した申請書類を受け取り,順番が来るまでひたすら待機だ.

残っている封筒の状況を見ると,この日の出頭予定者のうち2割くらいは来ていないようだった.全部来ていたら「時間がないからまた来て」と言われたんだろうと思うとぞっとする.最初からこのくらいの欠員を見越しているのだろうか? 逆に私の前に並んでいたグループは出頭日が3ヶ月前になっていたがこの日の出頭.うーん,よく分からん.

さて,5時15分くらいになってあと10人ほどという状況になると,審査係員が続々と退室していく.彼らが残ってくれていれば,ものの15分くらいで残り全員の審査が終わると思うのだが,これがイタリアだ.残った3人だけが審査を継続する.私は最後から二番目だったので,午後6時前にようやく自分の番が回ってきた.その時には審査員は何と1名だけだ.最後の人は私が終了するまで待たなければならない.何ともはや...

その審査係員(男性)の前に着席して,パスポートと申請書類と写真4枚を差し出す.最初に「イタリア語は話せますか?」と来た.悪態をつく感じではなく,落ち着いた感じだったのでホッとする.「今,勉強中ですが,話すのも聴き取るのも書くのもまだまだ難しいです」とイタリア語で返答する.すると,ニコッとしてくれて,その後のやりとりは英語になった.

私の場合は,県庁で取得した労働許可書Nulla Ostaをちらっと見られただけで,その後は粛々と登録作業が進む.こういう時は日本人のブランド力に素直に感謝する(最近は逆に恥ずかしいと思うことが多いようだが).途中でいよいよ指紋の採取である.これは精神的に不愉快なモノだが,べったりとしたインクではなく電子的に取るのがせめてもの救いだ.10本の指と両手のひらまできちんと取られて終了.

手続きは10分弱くらいで終了したと思う.意外にあっけなかった.最後に「3ヶ月後くらいに滞在許可証が発行されます.住所は○○です」と言われる.受け取りは自宅からほど近い警察署だ.引換券はないのかと思ったが,途中で携帯番号を聞かれたので,SMSで連絡が入るのだろう.果たして滞在中に無事に入手できるのか,こうご期待.

2010年9月23日木曜日

Questuraへの出頭(1)

滞在許可証の申請を7月初旬に郵便局で行ってから二月半,書類審査と指紋押捺のために警察署であるQuesturaに出頭する日が9月21日にやって来た.半分楽しみ,半分緊張である.

指定時刻は午後4時半.ローマのQuesturaは中心部もあるのだが,最近イミグレーション部門が東部の高速環状線に近いエリアに移動したようだ.ここは公共交通で行くにはなかなか骨が折れるところだ.移民受付だから基本的に車で行くのは難しい人たちが多いはずなのだが,何でこんな場所にあるのか,理解に苦しむ.

私は当然車で出かける.渋滞でもして遅れるとやっかいそうなのでオフィスを早めに出て,1時間前の3時半には現場に到着.駐車場がきちんとあってホッと一息.中に入ると,アジア系,アフリカ系の人たちだらけで,そこはイタリアとは思えない空間だ.西洋人はかなり少ないが,これは東欧系だろう.

イタリアらしく,ここでも最初にどこにアクセスするのかが全く掲示されていない.仕方ないのでそばにいた警官に尋ねると,無言で入口の方向を指すだけだ.慣れてはいるが,公務員のこのような振る舞いにめちゃくちゃ不愉快な気分になる(笑).そちらの方に行き,別の警官に書類を見せると,「4時半まで待て」というので,仕方なく近くのベンチで座って待つことに.

すると,入口の警官が,「Tre(3時)!」と言っているのが聞こえた.ようはスケジュールより30分以上遅れているのだ.3時出頭組だけが通される.4時過ぎに,「Tre mezzo(3時半)!」と来た.まだ30分遅れだ.よく見ていると遅れてやって来た3時出頭組も一緒に入っている.どうやら申請をした方も時間にルーズなようだ.

5時前にようやく4時半の順番が回ってくる.書類を見せて中に入る.みんな呼ばれる前から入口に張り付いているので,ベンチに座っていると順番が最後の方になる.私の後ろはぎりぎりになってやって来た人が一人だけ.たぶん4時半受付が最終なのだろう.建物入口で荷物チェックを受けて,いざ審査会場へ.続きは次回.

2010年9月22日水曜日

イタリアのプールの豊かさ

やや季節外れになってしまったが,書き忘れていたのでプールの話.イタリアに来てから二箇所でプールを経験した.一度目は以前にブログでも書いたアグリジェントで宿泊したホテル,二度目はローマ郊外にあるリゾート風の大型プールだ.

両方ともリゾート的なプールだったから,競泳のようにガンガン泳ぐ人はいない.プールサイドのサマーベッドで休みながら,のんびりと水につかることを繰り返す.日本のプールと違って,入場者の多くが水中にいるという状況ではない.芋を洗うような日本のプールに慣れている身としては,リゾートプールでも人とぶつからずに泳げることに感動する.

サンプルはわずか二つしかないことをお断りして,イタリアのプールでうらやましいと思ったことが二点,それは「プールの水深」と「飛び込み」だ.

プールの水深は,浅いところもあるが深いところでは3mくらいはある.つまり大人でも全く足が立たないのだ.日本では,横浜国際プールのような,競技用プールを開放しているところでしかお目にかかることが出来ないと思う.深いと「足がつったらどうしよう」といった心配はあるが,深く潜った時の水の冷たさは大変気持ちがいい.水深が深いのと混んでいないので,飛び込みが可能で,水面に勢いよく飛び込んでも誰も文句を言わない.日本ではほとんどのプールが「危険」という理由で飛び込み禁止にしているだろう.イタリア人の泳ぎはそれほど上手くなかったが,お陰で飛び込みが上手い人は結構いた気がする(笑).

それにしても日本のプール,市営プールは比較的空いているがプールサイドでのんびり出来ないし,レジャーランドにあるプールは混雑しすぎていてあんまり行く気がしない.来年日本に帰ったら海に期待するしかなさそうだ.

2010年9月21日火曜日

レンタカートラブルを経験(2)

Caianelloの自動車整備工場らしきところに到着して,そこで準備されていた報告書にサインする.すると,「私たちが出来るのはここまで」という信じられない発言が飛び出す.こんな時に切り返す適切なイタリア語はまだ分からない.どうやら直してくれるとか,代車を手配してくれることは期待できないことは分かった.

早速A社のアシスタンスセンターに電話する.すると,「そこだと最も近い営業所はNapoliだから,そこまでタクシーや鉄道で動いて下さい」という,何とも無慈悲なことをさらっと言ってくれるのだ.次にレンタルしたローマの営業所にクレームの電話をする.自分たちが貸し出した車両が故障したというのに,そのことに全く謝る気配もなく,「アシスタンスの言う通りにして下さい.一番近いのはやはりNapoliのようなのでそこに向かって下さい」と来た.

もう一度アシスタンスセンターに電話する.すると,「隣町に営業所があるようだ」と言う.その電話番号を聞いて連絡すると,片言の英語で「Casertaの営業所に連絡して欲しい」と言われる.地図を見るとCasertaはNapoliの30km手前のようだ.その方が好都合なので,早速そこに連絡.「代車は用意できるから,何とか移動してきて下さい.ただし,13時半から15時は昼休みだから」とのこと.その時は11時くらいだったこともあり,「CasertaではなくNapoliに向かおう」という決断をする.ゲストに電話して,目的地に先に行ってもらうことにする.

再び整備工場の事務室に入室し,近くの駅の場所を尋ねると,「ここから1kmです」と言うので,タクシーを呼ばなくても歩けそうだ.一応,親切に列車時刻を調べてくれたが,「次のナポリ行きは14時台ね」と言われ,力が抜ける.仕方なく駅まで徒歩で向かうが,1km行っても駅らしきものはない.近くの人に聞くと,「向こうに1km」と来た.1km先にはやはり駅はなく,次の人も「次の大きな交差点を曲がって1km先」...イタリア人の1kmの距離感覚はどうなってるんだろうか? 結局3km歩くことになる.

駅に着くと,Napoli行はちょっと前に出たばかりで,次の列車は本当に14時台だった.その30分くらい前にCaserta行がある.「Casertaに行ってそこで乗り換えた方がNapoliに早く着く」と駅員が言うので,駅構内のBarでCafeを飲んだりして時間をつぶしながらCaserta行を待つ.

Caserta行はイタリアらしくなく定刻にやって来て,順調に進行し15時ちょっと前にCasertaに到着する.時刻表を見るとNapoli行はガンガン出ている.その時,「そう言えばCasertaの営業所のオープン直前だな」と思い出し,早速電話をすると,「OK,車はまだある.営業所は駅のそばにあるから来て」と言われ,少し歩くとCasertaの営業所を発見,無事代車を借りることに成功した.

このレンタカーを翌日にNapoli中央駅の営業所に返却する.料金がどうなるのか大いに気になるところだが,特に何も言わなかったことを見ると,追加料金は払わなくて良さそうだ.電車代や電話代(国際にもかけてるから高い)を返して欲しいところだが,まあこれはイタリアだからあきらめよう.

それにしても,レンタカー故障時に代車手配がないのはおろか,タクシーなどの手配をせずに自力で移動させるとは何とも恐れ入った.新車に近い状態で整備不良なんて信じられない.それにしてもこれが出張最終日でなくて本当に良かったと思う.海外でのレンタカーの怖さを思い知った出来事だ.

2010年9月20日月曜日

レンタカートラブルを経験(1)

昨日,出張から帰ってきた.この出張の初日に,今後こんな経験は二度と出来ないだろうと思えるような出来事に遭遇したので,早速リポートする.

この出張,ナポリで開かれる研究プロジェクトの会議に出席するついでに,日本からのゲストと共に,ナポリ周辺とシチリア島の地勢や都市の状況を視察するというもの.そのゲストを朝ナポリ空港で迎えるために,先週火曜日の早朝にローマの自宅を,前日に借りておいたレンタカーで出発した.

レンタカーは料金と営業所の立地からA社にしている.今回の出来事の主役はここでかりたLanciaのYpsilonだ.以前にも借りたことがあるが,最安クラスの中では高速走行性に優れている.ローマとナポリを結ぶ高速道路A1号線をしばらくは快調に走っていたが,突然ラジエターの水温の異常を示す警告が示された.ナポリ空港まで後70kmというところだ.

非常駐車帯に停車してボンネットを開けると,ラジエターから蒸気がでている.仕方ないので,しばらく放置して警告が消えてからスタートさせる.何とかごまかしながら20km走ったが,エンジンの異常を示す警告灯までが点灯し,慌てて路側の非常駐車帯へ,ここでエンジンが止まる...

約束の時間までは後1時間.早速A社のアシスタンスサービスに電話連絡をする.ここでは英語は何とか通じて,故障の状況と停車場所を知らせると,「15分後に救援車が来るのでそこで待っていて」と言われる.果たして20分後に一台のトラックがやってきた.ホッと一安心といったところだ.

トラックの運転手はイタリア語だけだが,これは想定内.何とか意思疎通を図ると,「車をトラックに乗せて,ここから20kmローマ方向にあるCaianelloに向かう」ということらしい.エンジンがかかったので車をトラックの荷台に乗り上げて,自分自身は車に乗ったまま回送サービスを受ける.大変貴重な経験だ.

10km先のインターチェンジでUターン,ここで,トラックの荷台から高速の通行料金を支払うというレアな経験もする.ここから30kmローマ方向に戻らなければならない.20分後にCaianelloのインターチェンジ付近の整備工場のようなところに到着.ここから事態はとんでもない方向に向かう.続きは次回.

2010年9月13日月曜日

新学期の始まり

バカンスシーズンの終わった9月,最初の頃はまだ通勤ラッシュを感じさせる気配は全くなかったが,先週後半あたりから朝の交通量がだんだん増えてきた.それでもまだ,4月や5月の頃と比べて全然少なかった.

ローマの日本人学校は,日本の授業スケジュールと同じように動いているので,2学期の始業は9月1日からだ.隣の敷地にフランス人学校(たぶん)があるのだが,こちらの方は9月1日には始まっていない.学校が始まれば,子供を送ってきた車の駐車スペース争奪戦を学校周辺で見ることが出来る.先週まではそんなことはなかった.

今朝,ニュースを見ていたら,今日から新学期(日本で言えば進級する4月に相当)が始まることを告げていた.こちらの小学校は6月中旬くらいから夏休みに入っているので,3ヶ月もの休みだ.フランス人学校も今日からスタートのようだ.

今朝は子供達を車で送った.果たして,先週までとは違って,日本人学校前面道路の駐車スペースが明らかに少なくなっていた.フランス人学校開始の影響だ.あちこちの学校前で8時過ぎくらいに渋滞が発生するようになった.日本で言うところの緑のおばさん・おじさんが交通整理をしている小学校もあるのだが,おばさん・おじさん達は大変張り切っていたように見えた.

ついにいつもの朝の通勤・通学ラッシュの風景が復活した.これで名実共にバカンスを終えて秋に突入というところなのだろう.

明日から一週間ほど出張に出るので,来週に再開します.

2010年9月12日日曜日

イタリアでの車の運転の心構え

イタリアでの車の運転は,運転に余程慣れている人でないと,基本的にあまりお薦めできない.街中は一方通行だらけで,どこからでも車とバイクと人が沸き出してくる.駐車場が少ないので,路駐でしかも狭いスペースへの縦列駐車を余儀なくされる.街中で駐車するには,場所を瞬時に見つける反射神経と,どんな手段を使ってでも場所を確保する胆力や図々しさと,違反を恐れない精神,の三つが必要だ.

併走する二台の車が前方の一車線のスペースを目指して争う場合,一方でも先に出て割り込めば,最終的にはほとんどのケースはあきらめてくれる.決して”チキンレース”にはならない(最終局面で両車揃って急ブレーキをかけない)のだ.この原則を高度に利用して,事故に気を付けながら常に他車よりも先んじるという張り詰めた運転をしていれば,ものすごいスムーズに運転できるのだ.

私ももちろんスムーズに運転したいので,公道レースのような意識で運転をしている.こんな運転を続けているせいで,最近運転中の気性が荒くなってきたと実感している.こんな時に事故を起こしてしまうのだと自覚はするのだが,いざとなるとレースモードになっている.

イタリア人は前がちょっとでももたついたり,自分にとって不都合な挙動をされると,すぐにクラクションを鳴らし,両手を大きく広げて「オーマイガー」ポーズを取る.一方のクラクションを鳴らされた方も「何?」という雰囲気で全然気にしていない.イタリア人はまず謝らないので,言い争いになることもある.そんな言い争いに遭遇すると,「そんな間にとっとと進んでくれよ」と思う.ちなみに,バスの運転手にもこんなひとが一定数いる.

この両手を広げるポーズ,子供と一緒に面白がってまねしていたら,いつの間にかクラクションを鳴らした後に両手を広げそうになってしまっている(笑).

2010年9月10日金曜日

滞在五ヶ月:ついに同行家族の滞在許可申請が郵便局で受理される(3)

弁護士曰く,Certificato di Idoneita Alloggiativaを準備すれば,必要な全ての書類が揃うことになった.これは研究所のLと申請に行ったときにも議論になった代物だ.このCIAでは,想像するに,「滞在許可を出している家族が一定の質の生活が保証できる住居にきちんと住んでいるのか」ということを証明しなければならないようだ.不法移民は経済的理由で狭い住居にたくさんの人数で居住してしまうので,これを排除しようというものだ.

プロセスは,大家などから住居の「公式な」図面を入手して,それを持ってMunicipio(日本でいう市区が複数に分かれている感じ,ローマ市は20弱ある)で申請手続きを行わなければならない.その後,役人がレーザー計測器を持って,家の諸元が図面通りかどうかちゃんとチェックしに来るのだそうだ.入手まで一ヶ月くらいだろうとのこと.ここまできたら,さらに一ヶ月くらい延びても,手続きがきちんとしている方がよいと判断し,図面を探してもらうことにする.大家は英語が出来ないので,弁護士と大家で直接連絡を取り合ってもらうが,(勝手な想像だが)この公式の図面というものがどうやら大家の手元にないらしい.

これを受けて弁護士から呼び出しがある.「公式な図面がないと,建築家に依頼してそれを作成してもらい,出来た図面を役所で認めてもらわなければならない.その依頼費用も安くはなく,なにより数ヶ月かかるだろう」ということだった.「たぶんCIAがなくても郵便局で申請書類を受け付けてくれるだろう.あなた方の場合は申請したという事実さえあればいいのだから,もうそうしてしまわないか?」との最終案を提示する.

申請が認められると,後日Questuraに出頭して指紋採取とともに,提出書類のチェックがあるらしい.恐らく,きとんとやる人と適当にやる人がいるのだと思う.後者に当たればCIAがなくても問題なし,不幸にも前者に当たって「再出頭,次回までにCIAを持参するように」と言われても,次の時にまたその人に当たるかは分からない.そのままでもいつかは最終的に受理されるというのが,弁護士の考えなのだと瞬時に理解した.もちろん「それでお願いします」ということにして,9月8日の午前中に弁護士と郵便局に申請に行く約束をする.

当日,弁護士とともに事務所近くの郵便局に行って申請手続きを行う.窓口の女性は書類を一回も確認しないで,あっけなく受理してくれた.恐らく,弁護士のことを知っていたのだろう.申請書類も代行して作ってくれて,ここまでやってくれて400ユーロだ.これまでにかけてきた時間と心理的コストと比べればものすごく安い.最後に「Good luck!」と言われて事務所を後にする.後は何回の出頭で決着するか,運任せだ.

これで念願の申請書控えが手に入った.家内も子供達もこれでようやく合法滞在となったわけで,これまで以上に派手に旅行に出かけることができるだろう.本当はバカンス前だったらよかったけどね.

2010年9月9日木曜日

滞在五ヶ月:ついに同行家族の滞在許可申請が郵便局で受理される(2)

7月下旬に,研究所のLから「ACLI Sportello Immigrazioneで申請方法が相談できるので行ってみてはどうか?」というメールを受ける.これがどういう組織か今でもよく分からないのだが,移民の受け入れを社会的に支援するボランティア組織のようなものかもしれない.

予約無しでOKというので早速駆け込んでみる.英語で対応できるスタッフもいるようで一安心だ.私の置かれている状況を説明すると,「残念ながら"Ricongiungimento Familiare"しかないわね」と言われる.この方法だと,やはりNulla Ostaを取った後に日本に帰ってビザ申請をしなければならない.これをしたくないから他の可能性を聞きに来たのになぁ.

仕方ないのでRicongiungimento Familiareで進めようかとあきらめかけた矢先に,日本人学校の長男の同級生の母親から,「私もそれで苦労して,弁護士にお願いして問題を解決したので,その方に頼んでみては?」と言われる.早速その弁護士にコンタクトを取るためにメールを父親から送ってもらうが,8月に入ろうかというタイミングで恐らく休暇中だろう.案の定しばらくレスは無し.

8月下旬にようやく弁護士からレスがあり面会する.英語は流ちょうではないが不都合はないレベルで,何よりもイタリア人らしからぬ温厚さと落ち着きがある.これは期待できそうだと感じた.以前にACLIで状況を理解してもらうのに難儀したので,取ったアクションとその結果を時系列に整理したメモ書きを作成して第一回目のコンサルティングに望む.

すると,「それだけの書類を持参して郵便局がどうしてそれらを申請を受け付けなかったのか,私にはその理由が理解できない」とおっしゃるではないか! 「私も理解できません!」と言うと,「あなたのケースはCoesione Familiareで可能なはずだ.法律上は,3ヶ月の観光ビザが切れてもそこから1年以内に申請すれば受理される.日本人だから申請できなくても実質的に問題はないが,それでも念のために申請だけはしておいた方がいいだろう」という何とも心強いコメントが続いた.期待はよりふくらむ.7月にトライした時に郵便局員は単に知らなかっただけだ.数年前に滞在許可申請を郵便局で受け付ける制度に変更となり,その後も法律が変わったりして,現場に全然浸透していないことがよく分かる.まぁ,これがイタリアというか...

「3月までの滞在だと,申請できても滞在許可証本体はどうせ受け取れないでしょう」.やっぱりそうなんですねぇ.「あなた自身のQuesturaへの出頭日は? 9月21日? これも間に合わないでしょう」.ああ,記念に欲しかったなぁ.まあ,滞在許可証の申請をしたという証拠があれば,実質的にはそれが滞在許可証に替わるのだ.何年も滞在しない,あるいは永住しない我々からすれば,それでよいのだ.

さて,弁護士が私の準備した書類を確認する.Certificato di Idoneita Alloggiativa以外は問題なし.このCIAをどう取得するかがカギを握りそうだ.続きは次回.

2010年9月8日水曜日

滞在五ヶ月:ついに同行家族の滞在許可申請が郵便局で受理される(1)

ローマに来てから早くも五ヶ月が過ぎ,残り半年強になった.この五ヶ月は結構あっという間だった気がする.残りはもっと時の流れの早さを感じるのだろう.

あっという間だったという理由の一つが,この滞在許可申請問題である.おさらいすると,出国までに滞在許可申請に必要な労働ビザが取得できず,6月末に私だけ一時帰国してビザを取得し,7月8日(だったか?)に滞在許可申請キットが郵便局で受理された.ここまでは7月中旬ぐらいのブログに書いていると思う.

労働ビザが発給された労働者に同行する家族についても,別途Nulla Osta(雇用主の申請に基づいて県庁が発行する受け入れ承諾証とでも言えばいいのか?)が必要なのだが,私の場合,これは同時に発給されなかった(これは制度上そうなのか,雇用主のミスなのかは不明).申請すれば数ヶ月後には同行家族のNOが出るとのことだったが,仮にこれが出てたとしても,ビザを取るのに日本に戻らなければならないのは面倒だしお金もかかる上に,その頃には帰国まであと数ヶ月だ.

しかし,イタリアに居ながらにして滞在許可申請ができる道は残されている."Coesione Familiare"という方法だ.観光ビザなどで入国し,有効期限内に滞在許可申請を行えばよいというものだ.我々の場合は,すでに観光ビザの有効期限は切れているので,この状況で申請が受理されるかがポイントだ.

これに必要な書類は公表されている.所定の申請書,労働者(私)と同行家族(妻)と同居する子供のパスポートの全頁のコピー,戸籍謄本(外務省でアポスティーユを取得した上に,在日本イタリア大使館指定の宣誓翻訳者に翻訳を依頼して,イタリア大使館の承認印をもらう必要あり),労働者のNOのコピー,労働者の滞在許可証のコピー(もちろんまだないので郵便局申請時に戻ってきた書類のコピーで可),労働者のCodice Fiscaleのコピー(ちなみに4月下旬に申請したのに現物はまだ送られてこない...),収入証明書,銀行預金残高(同居人数に応じて必要額が決まっている),Certificato di Idoneita Alloggiativa(住居適正証明とでも訳せばよい?)だ...

戸籍謄本,収入証明,銀行貯金残高は,先達者の体験談を読んで必要だと思ったので,一時帰国時に取り寄せて持参した.しかし,最後のCIAは知らなかった.研究所で本件を担当してくれているLは,「研究所が住居を保証しているという内容の文章を用意して代用すればいいと思う」と言うので,それを作ってもらう.そして,7月中旬に近くの郵便局までLに同行してもらい申請したのだが,見事に断られたのだった.しかし,その理由が全く定かでないのだ.見ていて明らかにCIAの欠如の問題ではなかった.きっと窓口の担当者がCoesione Familiareのやり方を知らなかった上に,規則書の分厚さを見てめんどうだと思ったのだろう.

さて,どうするか? 続きは次回.

2010年9月7日火曜日

封筒探しと郵送に一苦労

最近,大事な書類を至急日本に送らなければならないことになった.必要なドキュメントを週末までに全て揃えて,昨日の月曜日に発送しようとしていた.

このドキュメントはA4版で折ってはいけないので,大きめの封筒を用意しなければならない.しかしここ数日,文具店,スーパー,Tabacchi(タバコ屋:日本でのキオスクとコンビニの中間だと思えばいい)に何軒行っても手に入らない.売られているのは小さいか,やたら大きな封筒ばかりだ.

今日の昼前,研究所の同僚F女史の棚から偶然A4用紙数十枚が入る未使用の封筒(CDなどを送る時に使うクッション付きのもの)を探し出す.本人は休暇中だがこれを失敬する(急いでたのでごめんなさい,後で探して購入して返します).

めでたく書類を封筒に入れ,次は何で郵送するかだ.イタリアの郵便は信頼できないので有名だ.そこで,ドイツポスト傘下のDHLを調べる.ここのホームページはぐちゃぐちゃで全然分からない.次にFedexを調査.こちらもDHLと似たようなものだ.ブログなどを見ていると,Fedexの方が費用対効果が高そうだったが,ローマの営業所は空港近くにしかないようで不便だ.一方のDHLは市内にたくさんの受付があるようだ.

そこで,昼過ぎにTermini駅そばのDHL受付に行ってみる.ここは昼休みはないはずだが,シャッターが降りている.これを見てDHLの信頼性に疑問を持ち,悪名高い郵便局のReccomandata(書留)を試してみることに.「Vorrei spedire questa busta a Giappone sulla reccomandata. (この封筒を日本へ書き留めで送りたいんだけど)」と即興でイタリア語で言ってみるが,通じて思わずニッコリ.郵便局や窓口スタッフによっては国際郵便の書留を受け付けない場合がある(実際過去に拒否された)のだが,引き受けてくれた.「Fedexはもうあきらめよう」と早心変わり.料金は19ユーロ弱だ.DHLやFedexなら100ユーロ以上するだろう.イタリアから日本へはそれなりに信頼できそうなので,きっと大丈夫でしょう.

それにしても,ここで書いたことは日本なら1時間もかからないで終わる話だ.ホント,時間の無駄である.

2010年9月6日月曜日

とんがり屋根のかわいい家:Alberobello

Cataniaから遠路はるばるやってきたAlberobello.街に到着する20kmくらい手前から,この街独特の住居Trulliを沿道にぽつぽつと見ることが出来る.街に入ると,濃いグレーの円錐型の屋根を持った真っ白い壁を持つ住居群の圧倒的な景観を見ることができる.もちろん,ここも世界遺産だ.

この住居は単純な石積みでできている.しかもモルタルで接着していない.物置兼住居だと思えばよい.地震にはからっきし弱そうだが,このエリアは少ないのだろうか.壁は二重構造のようで,夏は涼しく,冬は暖かいのだとか.

ちなみに住居だけでなく,周辺の農地の区割りにも白い石垣が用いられていた.前日にEtna山の周りで溶岩質の黒い石垣をたくさん見たのだが,こちらはその材料が周囲に掃いて捨てるほどあるので,不自然さを感じない.しかし,ここAlberobelloでは周りに白い岩石を供給する場所を見ることができないので,あの大量の白石をどこから持ってきていたのか,不思議である.

この街では,Trulliのホテルに泊まることが出来る.我々はTrulli Holiday Resortに一泊した.ここは街に二箇所あるTrulli住居群地区のうち,ほとんど観光地化されていないAia Piccola地区内にあるTrulliをそのまま部屋としているようだ.この地区は大変静かで,周囲のTrulliは実際に生活している人たちが住んでいる.

寝泊まりしたTrulliは寝室一部屋,リビング,キッチン,トイレ+シャワーが付いていた.エアコンはなかったが,内部は全然暑くなかった.給水システムの影響からか,シャワーの出が悪かったのが難点だ.また,構造上大きい窓を設置できないのだと思うが小窓しかない.まあ,数泊までなら気にならないだろう.四人で一泊160ユーロくらいだったと思う.ホテルのフロント(英語はバッチリ通じる)は街の中心部にあり,部屋から歩いて500mくらいだった.朝食は200m離れている指定のレストランでとる.問題はやはり駐車場.完全に路駐なので,場所取りの戦いとなる.これも難点だ.

チェックイン後にもう一つのTrulli地区であるRione Monti地区へ向かう.Aia Piccola地区からは300mくらい離れているだろうか.こちらはもう完全に観光地化されていて,レストランや土産物屋ばかりあるという印象だ.この地区は約1,000棟のTrulliがあるらしく,高台からの眺めは最高だ.冷やかしに日本語だらけの土産物屋(従業員は結構な親日家のようだ)に入ったところ,押しつけがましくなく屋上を見せてくれた.申し訳ないので,土産物をいくつか購入する.日本人の性格をよく分かっているのだろう.

翌日は朝少しだけ街を見て,ローマに向けて出発.Alberobello自体の観光は一泊で十分だ.500km(90%が高速道路区間)をほぼ順調に走破して,夕方には自宅に到着した.これで長いバカンスはめでたく終了,愛車もいたずらされることなく無事に帰還.

2010年9月4日土曜日

500kmのロングドライブ+フェリー:CataniaからAlberobelloへ

シチリアの最後はCataniaで二泊.ここはシチリア第二の都市だが,ホテルは郊外部,観光もTaorminaやEtna山に行ったので,リストランテに行った以外はほとんど街中に行っていない.TaorminaとEtna山の観光もブログに書けるほど中身がないので省略.

Cataniaからローマまでは延々と車で帰る予定にしていた.途中にフェリーを入れて約900km.途中で一泊が必要だった.この一泊は次に話題にするAlberobelloだ.ここはBariの近くで,Cataniaとローマから共に500km,東京-京都間の距離だ.

CataniaからMessinaまでは100km弱,これは高速道路でスムーズだ.Messinaからはフェリーに乗り,対岸のVilla San Gionvanniに向かう.このフェリーは車一台乗せて30ユーロ弱,乗車人数を聞かれなかったので,何人乗っていようが運賃は変わらないようだ.チケットを買って,ラスト一台でフェリーに滑り込む.これを逃すと30分待つところだった.フェリーは30分くらいで対岸に到着,あっけないくらいに簡単である.この区間はイタリア国鉄の車輌が乗り込める船舶もあるので,鉄道ファンは必見らしい.時間がなかったのと,Youtubeで公開されている動画もあるので,今回はスルー.

Villa San Giovanniから高速道路A3号線で北上するが,非常にくねくねした区間が多く,路線改良工事をしている最中で,片側一車線にして運用している.バカンスシーズンで交通量も多く,ところどころ激しい渋滞だ.こんな時のマニュアルトランスミッションは大変きつい.最後の残り200kmは高速道路を降りて一般道路で行かなければならない.ここもそんなに飛ばせるわけではない.事故渋滞もある(この日は3箇所も事故現場を見た).

朝早くCataniaを出て,途中でレーシングドライバーのような緊張感のある運転で渋滞で遅れた時間を取り戻しつつ,何とか夕方にはAlberobelloに到着してホッとする.一日に500kmも運転したのは,たぶん20年以上ぶりだった.翌日も同じ500kmだ...

2010年9月3日金曜日

今年は冷夏?

シチリア観光シリーズを中断してローマの話題.9月の声を聞いたとたんに,朝晩に急激に冷え込むようになった.8月後半も日中は最高気温は35度くらいまで上がっていて,つい一週間前にはプールに入っていたくらいだ.夜も蚊よけ(本当に多い!)と防犯のために窓を閉め切った家の中はとても暑くて,クーラーを付けて寝ていた.

それがここのところ,朝の気温は15度まで下がる.寝入る時は布団はいらないのだが,明け方には寒くて目が覚めて思わず布団にくるまるほどだ.もっとも日中は30度近くまでは上がるから,寒暖の差が非常に激しく,風邪を引きそうで怖い.

「ヨーロッパの夏は短いから,それを少しでも楽しもうとして長いバカンスに出かけるのだ」と聞いたことがある.8月の最終土日は,ニュースでも「バカンスからの帰還による高速道路の渋滞」がニュースになっていたが,これに併せたかのように気候が一気に秋モードに突入だ.上手くできてるなあと感じた.

しかし,3回目の夏を過ごした方が「今年の夏は一番楽だった」と言っていた.日本は酷暑のようで聞いていて大変つらいし申し訳ないのだが,こちらは冷夏だったのだ.「まあ,また暑くなるとは思いますけど」とも言っていたので,もう一回くらいは泳ぎに行けることを期待している.このまま夏が終わると妙に寂しい気がする.

2010年9月2日木曜日

意外に大きいシチリア島

Agrigentoに2泊した後に,次の宿泊地Cataniaに向かう.Agrigentoですっかりのんびりした時を過ごしたせいか,あまりあくせくと観光する気がなくなりつつあった.その日はのんびりドライブして夕方までにはCataniaに到着すれば良いという計画だ.直行すれば200km弱といったところなので,途中でどこかに寄るところを考える.ガイドブックによれば,シチリア南東部にはRagusaやNotoという魅力的なバロック都市があるようだ.少し寄り道になるが,これらを車で通過してCataniaに向かうことに決めた.

AgrigentoからRagusaへは120kmくらいだっただろうか.この間には高速道路はなく,両側2車線で中央分離無しのごく普通の幹線道路,規制速度は市街地でなければ90km/hだ.そのため,「まあ1時間半くらいだな」という感覚であった.

途中までは,遅い車を抜き去りながら快調にドライブを続けていた.こちらの運転にもすっかり慣れてイタリアンモード全開.しかし,いくつかある途中の大きな市街地で「路駐待ち」の渋滞にはまる.バカンスシーズンということもあったのだろうが,交通量も多い.Ragusa到着は予定よりも1時間オーバーだ.

結局Ragusaは旧市街の美しい遠景(写真)を崖上から眺めただけで後にする.そこからNotoに足を伸ばすとCatania到着が夜になり,予定していたシーフードレストランに入れなくなる可能性があったので,あきらめてCataniaに向かうことにした.家族には悪いが,私は今月業務でまたシチリアに行くので,Notoはその時に時間があればトライしよう...

それにしても,シチリア島は地図で見ているとそんなに大きさは感じないのだが,日本で言えば四国より大きいのだ.主要都市間の距離は大体50~100kmはある.高速道路もそれなりに整備されているが,Agrigentoのある南部沿岸地域は全く整備されていない.地形もそれなりに起伏があり,市街地では激しい渋滞だ.結果としてプランニングよりは常に1.5倍以上の時間がかかる.併せて,観光地付近では駐車スペースを発見するのに時間がかかる.シチリア島のドライブ観光は,あまり詰め込みすぎないで,行程に余裕を持たせることが肝要なようだ.

2010年9月1日水曜日

真夏はきついがそれなりに感動するアグリジェントの神殿の谷

アグリジェントが有名な観光地なのは言うまでもなく,紀元前のギリシャ統治時代の遺跡であるValle dei Templi(神殿の谷)であるからである.現在のアグリジェントは斜面上に展開しており,イタリアの都市には珍しく近代的な高いビルも結構建っているようで,遠くから見るとなかなか面白い.神殿の谷はこの現在の市街地から南に3kmくらいだろうか.雨が少ないので,緑が少ない砂漠の一歩手前のような環境に立地している.間違いなく真夏の炎天下での観光はきついので,もちろん我々は午前中の内にこれを片付けることにする.
車を神殿の谷の西側の崖下にある駐車場に止めて,チケットを購入し,そこから徒歩で現場に向かう.10分弱歩くと,早速神殿跡Tempio dei Dioscuriが目に入る.これは神殿のコーナーの部分だけが残っている.ここが最も西側の遺跡で,そこから東に向かうと3つの主要な遺跡がある.神殿跡とその先に見える現在の市街地のコントラストが個人的には素晴らしいと感じた.

この神殿跡から東に向かう.ゆっくりと10分程度歩いて,次の遺跡であるTempio di Eracleに到着.これは神殿の柱が10本弱残っているだけだ.その先には,神殿の多くの部分が残されているTempio della Concordiaで,ここが間違いなくハイライトだろう.そこまで再び10分くらい歩いただろうか.内部では別料金で芸術展をやっていた.これは見なかったのだが,このConcordiaはやはり素晴らしい.アテネに行ったことがなく,本家の神殿遺跡を見ていないのだが,それよりは小さいと想像されるにしても,結構な感動は得られるだろうと思う.

最後はそこから15分くらい歩いて,東の端にあるTempio di Hera Laciniaに到着.これはEracleよりは柱の数が多いという程度だ.東向きの経路は基本的には非常に緩い上り坂で,途中に木陰も少ないので,炎天下ではConcordiaであきらめてもそんなに問題はないだろう.とはいうものの,ここまで歩いてきたというそれなりの達成感は味わえる.

ここから駐車場に戻るのに40分くらいかかるので,これまた一苦労だ.車を崖上に動かして,遺跡群から北に1kmくらい離れたところにある歴史博物館の見学.ここは思いの外展示が充実しているが,やはり巨大な人?の石造が最大の見所だろう.

半日もあれば神殿の谷を一通り見学することが出来る.アグリジェントはシチリア内の主要都市からのアクセスが良くないので,わざわざ来るからにはもう少し見所が欲しい気がする.ただ,夜はこれらの遺跡がライトアップになり,遠景も近景も楽しめるかもしれない.神殿の谷をとことん見ろと言うことだろう.