昨日,研究所で同室のF女史とひさしぶりに無駄話をした.ここのところお互いに忙しく,すれ違いも多かったのだ.会話は相変わらず英語である.ある程度イタリア語が聞き取れれば積極的にチャレンジするところなのだが,まだまだ無理だ.その時の話題は言葉が分からない異国でのコミュニケーションだ.彼女自身も二年近く前に東京に5週間滞在したことがあり,その時の印象がまだ鮮烈に残っているようだった.
この話題は,私が(一つ前に書いた)ボイラーが壊れた話の顛末を話題にしたことから,たまたま始まった.来てくれた技術屋は,最初は単語くらいは英語で話そうとしているようだったが,こちらがほんの少しでもイタリア語が分かるようだと感じると,その後のやりとりが全てイタリア語になった.それでも,いくつかの忠告は携帯電話の翻訳ソフトで日本語に変換してくれて(素晴らしい変換精度だったが何のソフトなんだろう?)説明してくれるなど,こちらがイタリア語を理解できないことを一応は配慮してくれていたのだった.「それでもこれまでの経験ではこんなケースはまれで,多くのイタリア人は相手がイタリア語を理解しなくてもお構いなしにイタリア語で話し続けるから結構つらい.それでも経験になるからと思ってイタリア語で話しかけて見ると,ますます確信を持ってイタリア語で攻めてくる」と言う.F女史はまあそんなもんだろうという顔をしている.
「私も東京では言葉が通じないという貴重な経験をした.でも通じないと,すぐにN(彼女の対応をした日本人女性)にHelp me!と電話して,通訳してもらったわ」とFは言うのだ.「イタリアではそうは言っても英語を使える人はそれなりにいるけど,日本ではほとんどの人が使えないでしょ?」と来たので,「まあ,統計はないんだけど,自分の感覚では5%以下だな」と説明する.そして,「でも,ほとんどに日本人は,君に話しかけられるとフリーズして,ソーリーといって申し訳なさそうに立ち去るでしょ」と言うと,我が意を得たりという様子で「そうなのよ!」と来た.そのせいであんまり日本人とコミュニケーションを取れなかったと感じている様子がありありと見て取れた.
もちろん,これらのことだけで決めつけることは出来ないのだが,外国人に対して,我を持っているイタリア人(ローマは特に)と,(特に西洋人に)引け目を感じる日本人という違いを最近痛感してしまうのだ.外国人に話しかけられた時に,たまたま日本語しか出来なかったとしても,何であんなに卑屈になる必要があるのかと,ローマに来てから考えるようになってしまったのだ.そんな局面でコソコソ逃げ回ると,「我がなく押しに弱い日本人」という評価がますます定着しそうでイヤになる.言葉が分からなくても逃げずに堂々と振る舞うことが,日本人の国際的地位を高めることにつながるのだと真に実感する.
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