2010年11月30日火曜日

またまた徒労に終わる滞在許可申請(2)

さて,面接会場で,担当官が「どんなタイプのビザで入国したのか?」と聞く.「日本からはノービザでも観光ビザとして3ヶ月は連続で滞在できるので,それで入った」と英語で言うと,「現在のプロセスはこれ以上続ける必要はない」と担当官の返答.「えっ,申請する必要がないの?」と返すと,「ここではこれ以上対応できないので,滞在ビザを取ってから来て」と言われる.

はぁ,また一苦労だ.仕方ないので,弁護士に電話して交渉してもらう.すると,担当官は上司に相談して,弁護士に何やら問題点を伝えているようだ.担当官が電話を返してきたので,弁護士と話をすると,「準備した書類は問題ないので,次回は子供を伴って来て欲しい」ということのようだった.だったら,最初からそう言ってくれ! しかも,子供を同行しろとは誰もいっていないし,どこにも書いてない.子供の申請書類は一切必要ないのに.

滞在許可を認める条件とその根拠法が,コロコロ変わるから現場で徹底されていない.今回もそのことをむなしく経験することになった.「次はいつがいい?」と担当官.仕方ないので子供の学校が休みの間にしてもらうことに.一ヶ月後にまたまた出頭である.次の面接時の担当官はどのような判断を下すのだろうか? 今回と同じ判断と対応をする保証はどこにもない.「○○の書類が足りないから作ってきて」と言われる可能性も残っている.そう考えると,憤りを通り越してむなしいだけだ.

2010年11月29日月曜日

またまた徒労に終わる滞在許可申請(1)

本日は,私以外の家族の滞在許可申請の再出頭の日だ.指定時刻はまたしても午前9時.子供達をローマ西部にある日本人学校に送ってからローマ東部にあるQuesturaに9時に到着するのは,公共交通を使っても車を使っても,物理的に不可能だ.ローマの朝は1時間に10kmも動ければ御の字だから.しかし,遅れていっても全く問題ない.遅刻しても入場できるようだし,そもそも9時になんか入場できない.

前回は,郵便で送付した書類が到着していなかったという理由で,再度の出頭を命じられた.郵便局での申請をお願いした弁護士は,こんなことを見越していたようで,申請書はさすがにオリジナルだが,それ以外の添付書類はコピーを郵送用の封筒に入れておいたらしいのだ.さすがである.今回はオリジナル書類をきちんと持って出頭.しかし,家族4名分のパスポートの全頁コピーは紛失されてしまったので取り直し.全く,何頁あると思ってるんだ!

このQuesturaは今回で三度目であるが,「イタリアではない空間」を毎回感じることが出来る.今回ももちろん移民達の熱気で溢れている.

さて,「9時!」という門番のかけ声を聞いて,一目散に家内と入り口に向かう.前回は,「あなたは入れない」と言われたところを,「家内だけだと厳しいから」と言うと,すんなり同行させてくれたのだが,今回は,絶対にダメという態度だ.「日本人だから別に大丈夫だろう?」と言っているようには聞こえたのだが,仕方ないので,家内だけで面接会場に行かせることにする.

10分くらいして家内の携帯に電話すると,既に面接を受けているようだ.今までの経験では建物に入ってからロビー空間で面接まで30分くらいは待つのだ.そんなんだったら,来場者を外に待たせないで中に入れてあげてもいいのに,と思う.

それから少しして,家内から電話が入る.「係員が私の名前を呼ぶからそうしたら入ってきて欲しい」とのことだった.だから最初から入れてくれればいいのだ.大勢の前で名前を呼ばれて,警備員に連れられてそそくさと入口を通過.その周りの群衆は,「さっき訴えてたけど入れなかった日本人だ」という目である.本当に恥ずかしい.

さて,面接会場に到着.そこから,「えっ!」という展開になる.続きは次回.

2010年11月25日木曜日

自動車の将来を議論する会議:H2Roma

今日は少し真面目な話.ちょっと古い話だが,11月10日にローマで毎年開催される自動車業界の会議であるH2Romaを聴講した.私が現在所属する研究所が主催者に入っており,私にもメールで案内が回ってきたので,せっかくだから行ってみることにしたのだった.

H2Romaは,自動車の技術開発動向について,産官学で定期的に情報共有することが目的だと理解した.学術セッションしか聴講しなかったが,自動車会社の幹部クラスによるセッション,高校生に自動車技術を分かりやすく講義するイベントなどもあって,かなり大がかりなものだっだ.

学術セッションでは,環境対応車両の開発戦略と状況について,確か10くらいの会社から報告があった.プレゼンは一部英語であったが,ほとんどがイタリア語.しかし,きちんと同時通訳がされていたので,内容はかなり理解できて一安心.

環境分野では,やはり日本の自動車会社のプレゼンスは高いと感じることができ,日本関係でいいニュースを聞かない昨今,少しはホットすることができた.ホンダは参加していなかったが(最近ちょっと心配),トヨタ,日産,三菱からは話を聞くことが出来た.プラグイン・ハイブリッド(トヨタ)と電気自動車(日産・三菱)の戦いが,本格的に始まろうとしている時期であり,プレゼンでも相互の対抗意識がちらついている.

それに比べると,ドイツのメルセデス,BMW,ポルシェ,あるいはフランスのシトロエンは,既に社運をかけた戦略を披露した日本勢と比べるとまだ様子見という雰囲気が漂う.確かに,充電池の性能がどこまで上がるのか,レアメタルなどの原材料がどのくらい確保できるのか,様々な不確定要素があるようなので,開発に多大なコストがかかる状況で経営者としては難しい判断を迫られるのだろう.

我がイタリアのフィアットは,既存エンジンを改良して効率を上げるようなシステムを紹介していた.考え方としては分かるが,日本・ドイツ勢と比べると何とも前時代的で地味である.会社の存続が厳しいので,新規開発どころではないのだろうか.フィアットの将来が非常に心配である.
それにしても,自動車の将来を語るのも重要であるが,その前に,ローマでは交通流をきちんと管理して欲しいものだ.エネルギー消費の少ない電気自動車の登場を期待して,そのまま自動車中心の交通システムを続けるつもりなのだろうか?

2010年11月24日水曜日

ウィーン旅行で思ったこと(2)

ウィーンの街は大変静かだ.あくまで,ローマでのあのけたたましいクラクションと溢れる車のエンジン音に比べると,という意味である.滞在中は毎日曇天で寒々しく暗い雰囲気が漂う中,静寂の街はより一層寂しさを感じさせる.ローマと比べると日没も1時間くらいは早いようで,これも寂しさを増幅する.ウィーン在住の知人曰く,冬の間はずっとこんな感じなのだそうだ.

クリスマスまであと1ヶ月となり,ウィーンではあちこちの広場空間でクリスマスマーケットがオープンしていた.その存在が,何かと沈みがちになる真冬の街の雰囲気を明るくするのに確実に役立っているようだ.もちろん我々も毎日通って,そのワクワク感を少し分けてもらった.

ローマは相変わらず毎日雨降りである.それでもわずかな時間だが太陽が顔をのぞかせる日が多い.そんな一瞬の晴れ間が非常にありがたいと思う.ウィーンの人達から見れば大変恵まれている.

子供達はウィーンを大変気に入ったようだ.理由は「きれいだから」ということのようだ.ローマでは遠景はきれいなのだが近景はゴミだらけという場所が多いのだが,ウィーンは確かに近景もきれいである.街路を横断する時に車がきちんと停車してくれる.ローマのように,「渡るから止まれ!」というオーラを出して手で車を制してそそくさと横断する必要もない.

しかし,一時の観光ならウィーンは大変素晴らしいが,長く住むのなら,多くの困難を伴うが,断然ローマであると感じたのだった.恐らくウィーンは1ヶ月で飽きるだろうと思ったからだ.都市には多少の刺激が必要である.

2010年11月23日火曜日

ウィーン旅行で思ったこと(1)

この4日ほどブログを更新していなかった.理由は,この週末にウィーンに3泊の旅行に出かけていたからである.ローマに滞在し始めてから初めて家族揃ってイタリア国外に出たのだった.

今日現在,依然として滞在許可証が取れていない.それでも私は何度も入国できるビザを持っているからまだいい.家内は申請自体がまだ受け付けられていない.この場合,法律上はイタリアから出国することはできないのだが,ウィーン行きの飛行機に乗る時にパスポートコントロールがないので,シェンゲン条約締結国相互の行き来には,この法律は実質的に意味がない.

ウィーンのホテルにチェックインする時,私のパスポート番号だけをゲストカードに記入しただけで,コピーすら取られなかったことには正直驚いた.ウィーンカードという,3日間公共交通乗り放題と,いくつかの観光施設で入場料割引の特典が付いたカードの購入にも,パスポート情報は一切必要ないのだ.

一方,我がイタリアでは,単なる観光客であっても,形式上滞在許可を申請しなければならないのである.ホテルは端末からゲストの情報を警察に提出しなければならないようだ.ホテルでなく,短期滞在者を引き受けるアパートの大家も然り.これに違反するとどんな罰則があるかは不明だが,聞くところによれば結構厳しいらしい.当局に,これらのデータを管理する能力がないと信じているのだが,それにしてもいつでも居場所を監視されている気がして,気持ちいいものではない.ウィーンでは,何か監視の目から一時的に逃れられた気がして,少しうれしかった.

オーストリア在住の知人に聞いたところによると,オーストリアでは観光ビザで入国してから,いくつかの手続きを経て,滞在許可が出るのだそうだ.もちろん,厳しい審査があると思うが,イタリアのようにいたずらに時を過ごすことなく,理不尽な理由でプロセスを引き延ばされることなく,数ヶ月オーダーで決着するのだろう.

オーストリアも旧東欧にもっとも近い位置にあり,イタリアと同様に歴史的に不法移民の問題には頭を痛めてきたはずだ.それでも,彼らが外国人を見た時に,内心は分からないが,基本的にやさしくフレンドリーな態度を取ってくれていると感じる(今回を含め三度の訪問だけでの印象であるが).イタリア,特にローマでの,外国人に対する冷たい目線と態度に十分に慣れた身としては,そのような態度が何か大変新鮮な物を感じたのであった.

2010年11月18日木曜日

L'aquilaの悲しい現実(3)

車に戻り,今度は旧市街の西にあるFontana delle 99 Cannelle(99の噴き出しの噴水)に向かうことにした.FSの駅から500メートル弱のところにあるのだが,駅からの道は一方通行に変更されていて,近づけない.仕方ないので駅前駐車場に車を置いて,歩いてアクセスする.ちなにみ駅舎も修復工事中である.

噴水に到着すると,ここも噴水など機能していない状態だ.本当は99個の異なる顔の彫刻の口から水が流れ出ているはずなのだ.もちろん噴水の周りの建物も,被害があったままで放置されている.もう壊れた建物はこれ以上見たくない.

地震後に,先進国からの復興支援を期待して,サミットの開催場所を無理矢理L'aquilaに変更したことは知っている.サミットが開かれたことがとても信じられないくらいの被害状況だ.一年半経ってもこの状態では,期待通りの支援が得られなかったのだろう.復旧には少なくとも十年オーダーの時が必要なのではないだろうか.復興はさらに時間がかかる.それにしても,役所関係の建物ですらほとんど復旧していないのは,さすがに「何をもたもたしているのか!」と憤りを感じざるを得ない.

情報が飛び交い,人々の移動の自由度が増した現在では,街がそのまま荒廃しないためには,何よりも復旧にスピード感と人々の強い意志が必要なのだ.今は,これまで何度地震に見舞われてもその都度復興してきた力を信じるしかない.

ちなみに,日本政府も復興支援にささやかに協力しているそうだ.そのうち,建築家の坂茂氏による「紙のコンサートホール」の建設現場(旧市街の外)を遠くから見てきたが,もう少しで完成しそうな状態だった.

2010年11月17日水曜日

L'aquilaの悲しい現実(2)

車を旧市街北東側に移動して,Castello近くの道路に路駐する.青線が引かれてあったので有料なのだが,肝心のパーキングメーターは壊れていて使えないので,実質無料だ.さっそくCastelloに向かう.堀に囲まれた四角い城で,Google Mapの航空写真で確認できる,均整の取れた美しい形そのものだ.残念ながら人が全くいなかったので,外観を見ただけで立ち去ることに.

いよいよ旧市街へと歩を進める.すると,地震で壊れたまま復旧がほとんど進んでいない旧市街がとたんに目に入る.多くの街路は柵で封鎖されている.建物も一部で櫓が組まれているが,土曜日だったこともあるのか,修復作業が全く行われていない.観光客が数組,要所で監視する警備員,一部開いているBarの店員以外は誰もいない.恐らく全住民が避難を続けている状況なのだろう.やはり,350名も尊い命が奪われた大地震なのだ.

次の目的地をSan Bernardino聖堂に決める.この聖堂の美しいファサードは,薄い平板のような構造物なのに奇跡的に生き残っている.その奥の聖堂のドーム空間は櫓が組まれていたので,大きな被害が出たのだろう.もちろん内部へのアクセスは出来ない状態だ.ファサードが拝めただけでも御の字だ.

次に市庁舎に向かおうとするが,そのアクセス道路は封鎖されている.仕方ないので中心のDuomo
広場を目指す.その途中で,開いていたBarに立ち寄る.こんな状況では,まともに稼げないだろうが,我々みたいな物好き観光客のために仕方なく開けているのだろう.本当に頭が下がる.

Barを出てCorso Vittorio Emanuereを南に進む.名前から判断するとこれが旧市街随一の目抜き通りだろう.L'aquila大学や役所も沿道にあったのだが,全て閉鎖されている.その前には,柵に通りの名称が書いてある紙がたくさん貼られている.想像するに,復旧が完了した通りから,その紙を剥がしてくのだろう.長い間貼られているようで色あせている.あぁ,全部剥がされるのはいつの日になるのか...

そこを通り過ぎるとDuomo広場に到着.我々を含めて二組の観光客しかいない.足を引きずっている犬が徘徊している.その目はやはりもの悲しい.ここに隣接するきれいな建物も,もはや近くに行って写真を撮る気にもならず,車に戻ることに.続きは次回.

2010年11月16日火曜日

L'aquilaの悲しい現実(1)

先週末の土曜日.その前の土曜日に続いて,この日も朝から快晴だった.そこで,ローマから日帰りできる観光地に行くことにした.残された場所はあまりない.ふと,昨年春に地震のあったL'aquilaはどうなっているのだろうかと思い立った.9月に仕事で行く可能性があったのだが,結局行けなかったので,思い立ったが吉日,いいチャンスだ.

ローマからは高速道路A24号線で一直線だ.一時間もあれば着くかと思っていたが,思ったより距離があり,結局一時間半くらいでL'aquilaに到着.標高が700m以上のようで,確かにローマからはアップダウンを繰り返しながら,全体的にはちょっとずつ坂を登っていく感じだ.L'aquilaの周辺の山は,既に山頂が雪に覆われていた.どうやらウィンターリゾートも盛んなようだ.

高速道路では,特に地震の影響を感じさせるものは皆無であった.「もうそれなりに復興しているのかな?」と思いながら,インターを降りて街に入る.すると,あちこちでひび割れた建物や崩壊した壁が残っている.道路もところどころ閉鎖されていて,カーナビがあまり役に立たない状況だ.それでも,この段階では街が死んでいるようには見えなかった.

次に気になったのは,有名な観光施設が崩壊しているかどうかだ.まずは,カトリックの”聖なる扉”の由来となったSanta Maria di Collemaggio教会に向かうことにした.これは旧市街の南東部外縁にあり,そのそばに大きなバスターミナルと駐車場があったので,そこに駐車してそこから徒歩で教会に向かう.

教会前の広場空間に到着.ここには石畳でもあったのだと想像されるが,地震後一年半が経過した現在でも,全く修復されず,単なる土の広場だ.教会の外側には特に大きな損傷はなさそうだったので,一安心.

しかし,中には入れない.恐らく内部の崩壊がひどいのだろう.教会の横では,軍隊のような警備員が車両に常駐して,来訪客(我々の他に一組いた)をじろっと見ている.これ以上,ここにいても仕方ないので,美しい教会の外観が拝めたことに一応の満足をして,ここを立ち去ることにした.

次に,旧市街中心部にあるいくつかの施設に向かうことにした.徒歩で行こうとしたのだが,バスターミナルから旧市街の中心のDuomo広場に向かう地下道は閉鎖されているし,階段のある街路もいまだに閉鎖されていて,警備員が見張っている.あまりの街路と建物の状態がひどく,思わず息をのむ.仕方ないので,旧市街に入れるところが別にないか,車で探すことにした.続きは次回.

2010年11月15日月曜日

珍しいローマでのキャッチボール

子供達が通うローマ日本人学校では,小学部3年以上に課外活動がある.いわゆるクラブ活動だ.長男は男子中心の球技のグループに入っているらしい.一学期は炎天下の中サッカーをやっていたようなのだが,二学期は何と野球だ.

「各家庭でグローブを用意して欲しい」との連絡があった.こんなことになるとは思ってもいなかったので,グローブは日本に置いてきてしまった.仕方ないのでローマのスポーツ店で探すことにしたが,大抵の店では野球用品なんか置いていないことは想像通りだ.

イタリアは実は野球はプロリーグがあるのだが,盛ん?なのはボローニアの当たりで,プロチームはこのあたりに固まっている.首都ローマにはプロチームはない.インターネットで検索しても,野球用品を扱うスポーツ店はボローニア当たりしか見あたらない.

結局,ローマで最大のスポーツ店と思われるDecathronで見つけることが出来た.もちろんブランドを選べる環境になく,聞いたこともないようなブランドのものしかない.しかも,作りがしっかりしていないので,取りにくそうだ.その分ものすごく安くて20ユーロはしなかったと思う.キャッチャーミットやファーストミットはなかったが,これらのポジションの人はどこで買えるのだろうか.面白かったのは,左利きのものが多かったこと.イタリア人は左利きが多いらしい.何とか残っていた最後の右利きグローブを購入.

その後,親族が来た時に持ってきてくれたり,私も日本に出張した時に購入したりして,家族人数分のグローブが揃った.そのため,最近は子供達と住宅の敷地内や公園でキャッチボールをしている.すると,「あの東洋人は何をしてるのか?」と怪訝な顔をされたり,興味ありそうに「何をやっているのか?」と話しかけられたりして,なかなか愉快である.日本では多くの公園でキャッチボールが禁止されているんですよね,そういえば.

2010年11月12日金曜日

エトルリアの古代墓地Necropoli

ローマの建国は紀元前750年頃と言われている.当時,中部イタリアで力を持っていたのはエトルリアで,ローマの北側を支配していたようだ.Tarquiniaはその有力な都市の一つと考えられる.エトルリア人は建築技術に長けており,ローマは建築・土木技術を彼らから学んだと言われている.私のような土木屋からすると大先祖である.エトルリア人の起源,使用言語はよく分かっておらず,依然として謎の民のようだ.ちなみに,ティレニア海はエトルリア人の海,トスカーナはエトルリア人の土地という意味らしい.

現在のTarquiniaの街から数km東方向に行くとNecropoliがある.Necropoliは共同墓地という意味らしい.Tarquinia博物館との共通券で一人8.5ユーロ,子供は無料だった.入口に土産物やガイドブックを売る売店と,ちょっとした喫茶空間も確か入っていたと思う.

さてこのNecropoli,草原のような丘に小さな小屋が20軒ほど点々と展開している.日陰もなく,真夏はきついだろう.雨天時もつらい.我々が訪れたのは秋晴れで,着込んでいるとやや暑いといった感じだったので,天候としては恵まれている.この小屋から地下の埋葬空間に入っていく.

薄暗い階段を下りていくと,石室となっている埋葬空間の前に辿り着く.この空間は入ることが出来ず,ガラス越しに眺めることしかできない.セルフで石室の照明を付けなければならない.石室の壁面には色鮮やかな壁画が描かれている.死後に寂しくないように,明るい色調で彩ったのかもしれない.

小屋に掲示されている説明文(イタリア語と英語の併記)によると,作られたのは大体が紀元前4~6世紀であった.発見自体はここ100年というオーダーだったので,7割くらいの石室は風化が進んでしまっている.色鮮やかな壁画が見れるのは全体の2割くらいだろうか.慣れてくると,掲示板を見ただけで,見る価値がありそうな石室かどうか分かるようになる.

それにしても,こんな墓地空間を見ているだけで,エトルリアの往時は大変力があったのだと理解できる.博物館で飽きるほど見た石棺の彫刻の細かさと併せて,その建築技術と芸術性に思わず感嘆する.残念ながら我がローマに滅ぼされてしまったが,その高い技量は,”敗者同化政策”を徹底したローマでなければ,危険視されて徹底的に排除されたであろう.

2010年11月10日水曜日

美しい死者の町Tarquinia

10月初旬にフィレンツェに行った後は,仕事が急速に忙しくなってきたのと,週末の天気が芳しくなかったこともあり,あまり観光してなかった.ローマ滞在も残すところ4ヶ月強になってしまい,まだまだ行っていないところがたくさんあるので,せっせと観光しないともったいない.

この前の土曜日は朝から久しぶりの快晴であった.仕事がたくさんあったのだが,居ても立ってもいられなくなり,近場に観光に出かけることにした.向かった場所はTarquiniaである.RomaからCivitavecchiaを通り過ぎた先にある.自宅からだいたい100kmくらいだ.高速道路が混んでいなければ1時間もあれば到着する.

Tarquiniaは,中世の風情を感じることが出来る,よくある小さい街だ.ご多分に漏れず,丘の上に展開しているので,平坦な場所は少ない.住むことになるとすぐに飽きてしまうのだろうが,観光客としてそぞろ歩きをしている限りではこんなにいいところはない.

街の中心はMatteotti広場で,その北側にロマネスク様式やゴシック様式の教会が展開する.周辺の街並みもそれらにマッチしていて古びているが美しい.この広場北側の街区では駐車車両を余り見なかったので,厳しく規制されているのかもしれない.中世の街並みに自動車は似合わない.

広場から西に向かうとVitelleschi宮があり,その中にTarquinia博物館がある.この建物は教会よりは華やかさがあるので,たぶんルネッサンス様式だろう.この博物館は古代エトルリア文化の棺桶,石像,黒・赤ベースの色彩豊かな壺が,次第に飽きてくるくらい豊富に展示されている.

Tarquiniaは次回紹介するNecropoliが有名で,そのために死者の町と言われているそうだ.確かに博物館の棺桶の芸術性は見事であった.土曜日だったこともあるが,人通りも少なく大変静かな街だったように思う.死者の魂とともにひっそりと暮らしているのだろうか.

2010年11月8日月曜日

雨の月曜日,通勤2時間!

週明けの月曜日,いつものように子供達を学校に送り届けてからの出勤.週末はいい天気で,土曜日に久しぶりに観光に出かけたのだが,昨夜から激しい雨だ.Veneto州の方では,豪雨による洪水で街がやられたニュースを見た.この前もGenovaが被害に遭っていたし,場所は忘れたが南部の方でも最近洪水があったと思う.雨が少ないイタリアも降る時は降るようだ.

さて,日本でも雨の月曜日は道路が混むことは常識だ.ローマでもきっとそうなのだろう.しかし,今日はひどかった.8時ちょっと前に自宅を出て,オフィスに到着したのが10時前,いつもより40分遅れだ.

おなじみの光景だが,先が詰まっているのに交差点に突入して,青になった交差方向の交通を阻害する.バスレーンやトラム軌道があってもお構いなし.これが今日は際立っていた.あちこちでこんな状況になっているから,バスも全然進めないのだ.座っていたからいいが,立っていたらさぞかししんどかっただろう.

ローマでは,自動車保有に高い障壁も設け,街路上ではバスやトラムを最大限に優先する制御を導入するしか道はない.9km進むのに2時間って,よく考えたら歩いた方が早いのでは?

2010年11月5日金曜日

送ったはずの滞在許可申請書類が届いていない!(2)

通訳してくれる女性を通じて,「申請書類が到着していないのだが,どうしたらいい?」と尋ねる.すると,「書類のオリジナルは?」と言うではないか.「えっ,送った書類がオリジナルじゃないの?」と答えたが,「オリジナルを見せてくれ」と言われる.

弁護士に依頼して郵便局での申請にこぎ着けたことは先に書いたとおりだ.その時に「念のため」といって申請書類のコピーはもらっておいた.私の申請の時は自分でやったこともあり,申請書類のコピーなど取っていなかった.それでも申請書類はきちんと届いており,コピーなど持参しなくても問題なかった.

そのためコピーは家に置いてきて,手元に持っていなかった.「郵便局での申請時に,申請書類のコピーを保存しろとはどこにも書いていなかった.だからコピーなんか持ってない」と言ってみる.確かに持参すべき書類に申請書類のコピーと書いてあるが,これは申請書が受領されて,出頭書を受け取って初めて知るものだ.

すると,「再出頭の日時を指定しますので,また来て下さい」ということになった.その直前の「郵便局がなくしたんでしょう」という発言に,思わずブチッと来た.「そんな大事な書類がどうして簡単になくなるんだ!」,「忙しいのにまた来いというのか!」,「申請書類を揃えるのにどれだけ苦労したと思ってるんだ!」と口走っていた.こんなことを言われても審査員も困るだけだろうが,もう止まらなかった.「もういい,行こう!」と捨て台詞を吐いて,審査会場を後にしたのだった.途中で壁に八つ当たりの蹴りも入れている(笑).

それにしても,滞在許可の審査に行った時に送ったはずの申請書類が届いていなかったというトラブルは,先達のブログでもいくつか紹介されていた.これが自分の身に降りかかるとは...

滞在許可申請は,そのプロセスの利便性を高め,かつ効率性を高めるために郵便局での申請システムとなっているはずなのだ.しかし,このように信頼性の低い郵便局が介在することが果たしていいことなのか.Questuraに届いているのに彼らが紛失した可能性もある.私は一年しかいないし,永住するつもりもないからそんなに深刻ではないが,多くの申請者はイタリアで生きていこうと滞在許可に人生をかけて望んでいる.そんな彼らにとっては,冗談では済まされない.

2010年11月4日木曜日

送ったはずの滞在許可申請書類が届いていない!(1)

久しぶりに滞在許可証問題.昨日は家内+子供の滞在許可の審査があった.もう思い出したくもないが,非常に苦労して郵便局での審査申請を終えたことは書いたとおりだ.あれからもう二ヶ月経っている.

Questuraの出頭時刻は朝9時だ.Questuraは環状高速GRAと高速A24号線がぶつかる当たりにあり,ローマ西部の我が家とは正反対だ.子供達を学校に送り届けてから行かなければならないので,遅刻は必至だ.案の定,道中はものすごい渋滞で,現地に到着したのは9時半過ぎ.のっけから「はぁ」というため息が出る.しかし,これは単なる波乱の幕開けに過ぎなかった.

私は前回経験しているので,ある程度勝手は分かっている.警備員に出頭書を見せると,「9時になったら呼ぶ」とのこと.やっぱり遅れているようだ.しばらくすると,警備員が「8時半!」と言う声が聞こえる.ところが誰も名乗りでなかったので,「9時!」となる.私たちは運良く警備員の近くにいたので,すぐに入ろうとする.今回の対象は私ではないので,私が入ろうとすると止められて,「本人しか入ることができない」と言われてしまった.「家内は英語もイタリア語も出来ないからサポートしたい」とつたないイタリア語で訴えると,結局は通してくれた.だったら最初から止めるな.

手荷物チェックを受け,審査会場のあるフロアーへ向かう.ロビーの窓口に出頭書を見せると,何故か郵便局が受け取ったはずの審査書類が届いていないらしく,「そのまま並んで」と言われる.仕方ないのでその通りにする.

夕方に行った私の時よりも待ち時間がなく,10分後には家内の順番になって審査が始まる.今回の審査担当は英語ができないようで,たまたまとなりの窓口にいた申請者が英語が出来るようで,間に入って通訳してくれた.ここから事態はとんでもない方向に進む.続きは次回.

2010年11月3日水曜日

ローマを再実感

昨夜に出張先の「東京」からローマに戻ってきた.たった四泊だったが,非常に濃密なスケジュールを過ごしたせいか,長い間ローマを離れていたかのような不思議な感覚だった.

Fiumicino空港に到着して,預け入れた手荷物をターンテーブルで待つ.それにしてもこの空港は,作業員がとろとろと仕事をしているのだと思うが,荷物が出てくるのに毎回ものすごい時間がかかる.今回も,ターンテーブルに到着してから40分くらいかかった.思わず「ああ,ローマに戻ってきた」と実感.

外に出てみるとものすごい豪雨だ.到着階で長期駐車場行きのバス停を探すのだが,サインがなってないので,その場所が全然分からない.仕方ないので,出発階にあるバス停に向かう.この旅行客に全然優しくない感じで,やはりここはローマだと実感.

10分くらい待ってバスが到着して乗り込む.このバスは駐車場→出発階→到着階→駐車場と巡回するので,次は到着階だ.ものすごい人が待っている.出発階から乗車したのは大正解だったようだ.ドアが開くと同時に乗客が殺到する.長い停車中に交通を妨げているので,後ろの車がクラクションを鳴らしまくる.ここでも「ああ,これがローマだ」と実感.

駐車場に着いたら料金の支払いだ.事前に33ユーロで予約しておいたはずなのだが,実際に支払機で決済すると69ユーロと表示.どうやっても33ユーロにならず,係員もいない.十分に疲れていたので,あきらめて69ユーロ支払って帰途につく.このぼったくられ感もまたローマならではだ.