2011年8月24日水曜日

最後の投稿

さて,本ブログはローマ滞在日記なので,もうこれ以上書くことはない.ここまでお読み頂いた方に感謝する次第だ.これからローマに滞在される方々に何らかの参考となれば大変うれしい.

最後にローマ出発後,帰国までの状況を簡単に.

16日はLuccaからMonacoまで移動,17日はNiceを経由してAvignonまで移動,見たかったPon du Gareにも足を運びながらここに2泊して,19日に700km弱の移動を敢行してParisに到着した.Parisに3泊して,22日に羽田便に搭乗,翌23日朝に羽田空港に到着して無事帰国である.

Avignonを出発するまで,22日のフライトを1週間程度延期するか迷っていた.しかし,首都圏の混乱が収束に向かいつつあるとの情報を得て,予定通り帰国することを決断したのだった.

苦楽を共にしてきた愛車Clioはパリ空港そばの返却ステーションで無事返却した.心の中で「いろいろとありがとう」とつぶやきつつ...

お世話になったローマの皆様へ,また会う日までお元気で.

日本人学校の終業式

3月15日,いよいよ子供たちの最後の登校日だ.卒業式の後にお別れ会が控えている.もちろん,我が子たちは主役であるが,主役は何と13名! なんと多くの子供たちが日本人学校を後にすることか...加えて,3名の先生方も日本に戻るので,その送別会も兼ねている.

主役たちは壇上に上がり,一人一人お別れの言葉を言い,それに対してクラスメートたちがお別れの言葉を返していく.全生徒の3割が送別対象なので,送る方も大変である.

お別れ会を締めるのは,全員で校歌を歌いながらの退場である.これは率直に言って泣ける.私はあんまり湿っぽいのは苦手なのだが,そんな私も少しウルウル来たくらいなので,主役たちはさぞかしつらかっただろう.しかし,どちらかというと送り出す方に泣いていた人が多かったかな.

お別れ会の後,主だった方々にお別れの挨拶をして,いざパリに向けて出発.この日はイタリア最後の宿泊地,Luccaまで350kmを移動だ.

ローマ出発の前日:ついにアパートを退去する

3月14日,翌日に日本人学校の終業式を控えていた.終業式を終えたその足でローマを去ろうと考えていたので,この日にアパートを退去して,日本人学校に比較的近いホテルに泊まることにした.

あらかたの荷物は既に日本に送り出しており,残すは大型のスーツケース2つ,小型のスーツケース2つ,段ボール箱1つである.ビジネスバックなどの細々とした鞄も複数ある.これらをあの小さいClioに載せるのだ.これらを何とかClioに詰め込み,いざ出発,アパートよさらば! 助手席も後部座席もやや苦しそうだったが,我慢できないことはなさそうだ.明日からはこの状態でパリまで移動するのだ.ホテルのチェックインはもちろん問題なし.

この日の夜は滞在中仲良くして頂いたW氏家族とF氏家族がローマから南に車で1時間くらい移動した雰囲気の良いレストランでお別れ会を開いてくれた.最後のローマの夜は楽しくもしみじみと過ぎていった.

2011年8月1日月曜日

イタリアメディアの東日本大震災報道から感じたこと

東日本大震災はすぐにイタリアのメディアで取り上げられた.ヘリから撮影された仙南平野を疾駆する津波,リアス海岸に押し寄せる津波の映像はそれは衝撃的だった.国営放送RAIが使用していた画像はNHKのものを使用していた.

翌日には福島第一原発で水素爆発事故だ.この画像も衝撃だった.ただ,このことを一番早く知ったのは確かCNNのサイトであった.イタリアの地方紙も一面トップは震災モノである.ここまで日本が注目されてことは最近ではなかっただろう.何ともやるせないものだ.言葉は正確に理解できないが,原発事故を境に,報道の内容は日本への同情に併せて非難が入り始めているように感じられた.

聞く話によると,日本人学校のあるママは3月下旬に子供を連れて日本に一時帰国する予定だったのだが,そのイタリア人のパパが親族から「放射能まみれの日本に子供つれて戻ることを許すなんてなんと非人道的な!」と叱責を受けたそうである.私も何人かのイタリア人に「そんな危険な日本に本当に帰るのか?」ということを言われた.

この例を紹介したのは,日本の外務大臣が全然画面に登場しなかったことに問題意識を感じたからだ.大変奇異に感じられたし,海外にいる身としては,政府が国内にしか意識が行っていないように見えたことが大きな不安だった.海外から同情と懸念の声が大きくなる中,大臣がどのような対応をしていたのか,実は今もって全く分からない.大使を含め,大使館の動きはどうだったのだろうか? イタリア人とイタリア社会の日本に対する懸念を払拭するような行動をきちんと取ったのだろうか? ご存じの方は教えてください.

引っ越し荷物の送り出し

アパートの退去手続きが済んで,今度は引っ越し荷物である.ローマに来たときには,大型スーツケース3つ,小型スーツケース2つでやってきて,さらに3箱ほどをEMSで別送したが,その時よりは荷物が確実に増えていた.トランクが大きくないclioでパリに行かなければならないので,スーツケース全てを持って行くのは不可能である.

インターネットで調べると,ローマでは日通とヤマト運輸が日本までの引っ越し荷物を取り扱ってくれるようだった.船便と航空便それぞれの荷物の種類と量を大まかに把握し,スーツケースを一つ船便として送り返すという条件の下では日通の方が良かったので,そちらにお願いすることにした.

各段ボール箱とトランクは25kg以下にする必要がある.この重量の調整が大変.こちらで入手した書籍や資料,日本に持ち帰りたい書籍,子供たちの教科書など,重量のかさむものもたくさんある.色々と試行錯誤して,航空便で4箱,船便で4箱+スーツケースということになった.費用は日本円で20万円くらいだったかな?

3/10の午前中に日通から依頼を受けたイタリア人ドライバーがこれらの引っ越し荷物を受け取りに来た.英語が話せたので何のトラブルもなく荷物を持って行ってくれ,一安心.退去手続きも荷物の送り出しも終了し気楽になった後に,警察に行って滞在許可証を受け取り,まさにルンルン気分だった.翌日にあんなことになることも知らずに...

ちなみに,航空便は帰国時の入国審査後に指定された日通のカウンターで手続きを行い,約一週間後に自宅に配送されてきた.船便は5月中旬に到着したので,約二ヶ月と行ったところだ.いずれも中身の欠損はなくてホッとした.

2011年7月22日金曜日

アパートの退去手続き

アパートの退去を3月14日に決めたので,9日にアパートの状態を大家にチェックしてもらうことにした.
アパートの契約時に2ヶ月分の敷金を支払っている.これがどの程度戻ってくるのかが焦点だ.しかも,ボイラーの故障時にテクニコに私の方から代金を支払っているので,この分がきちんと考慮されるかも重要なポイントである.

1年間も住んでいたので,水回りはどうしても汚れてくる.シャワールームの天井と壁はカビが発生しており,とても拭き取って落ちるレベルではない.なんだかんだでまあ1ヶ月分は取られることになるのだろうと推測していた.

約束の時間から20分程度遅れて大家が到着.このくらいの遅れは既に何にも憤りを感じなくなっている自分が怖い(笑).日本人会事務局のM氏にも同席して頂いたので,大家との会話は問題ない.「いい滞在だったかい?」と聞いてくるので,「もちろん」と答える.すると,全部屋の状態のチェックを行うことなく,敷金全額とボイラー修理費の立て替え分をそのまま返してくれた.現状復旧はこちらでやってくれということらしい.彼の対応は最後まで怖くなるくらいの適当さだ.まあその方がこちらも楽だけど.

仕方ないので,M氏にお願いして,知り合いの何でも屋に現状復旧をお願いすることにする.見積もりの結果,トータルで450ユーロでやってくれるというので,お願いすることにした.一ヶ月の家賃の40%弱で済んでしまったのでラッキーと言うべきだろう.修復は我々が退去した後に行われるので,慌てる必要もない.

後は退去後に鍵束をM氏に預けるだけで引き渡し手続きは終了である.拍子抜けするくらいの簡単さである.

2011年7月21日木曜日

震災の日

さて,あの震災である.3月11日の日本時間午後3時前.ローマでは午前7時前だ.この日は実は研究所への最後の出勤日でもあった.14日にはアパートを退去し,15日にローマを離れるために,この日が本当の意味で最終日だったのだ.いつものように子供たちを日本人学校に送り届け,そのまま研究所に向かう.

到着は10時前だったろうか.パソコンを開いてインターネットでニュースをチェックすると,宮城県沖を震源とする大地震の記事が目に飛び込んでくる.しかも首都圏でも震度6クラスの揺れである.直ちに家内の実家に連絡を取る.ここはすぐつながって,「とりあえず大丈夫.たまたま義父が我が家の空気入れ替えをやっていたタイミングで地震があったが,そちらも大丈夫」ということで一安心.その結果を家内に連絡し,今度は私の実家に連絡.こちらはつながらず,結局つながったのはその数時間後だったと記憶している.「被害はない.仙台いる妹(私の伯母)は無事,日立にいるその娘には連絡が取れないが大丈夫だろう」とのことでこちらもまずは一安心だった.

ローマ時間の昼頃には,インターネット上にヘリコプターから津波をキャッチした映像が出回っている.NHKのサイトは全くつながらず,BBCやCNNのサイトから情報を入手する.これらは本当に情報が早く,非常時の強さを見せつけられた.

今回の滞在でお世話になった研究所の教授がやってきて,最後の挨拶をする.「どのぐらいの被害になりそうか?」と聞いてくるので,不謹慎ながら「千人単位の死者が出ているだろう」と答えたような気がするが,死者数はあっという間にこの予想を超えてしまい,言葉を失う.

もちろん最終日の余韻を楽しむことはもはやできず,ひたすら情報収集に明け暮れる.夕方,最後に世話になった同室のF女史に鍵を返却して,別れを告げてから帰宅の途に着く.送別会などもなく,あっさりとした最後だった.よく考えたら,歓迎会もなかったな.