2011年7月22日金曜日

アパートの退去手続き

アパートの退去を3月14日に決めたので,9日にアパートの状態を大家にチェックしてもらうことにした.
アパートの契約時に2ヶ月分の敷金を支払っている.これがどの程度戻ってくるのかが焦点だ.しかも,ボイラーの故障時にテクニコに私の方から代金を支払っているので,この分がきちんと考慮されるかも重要なポイントである.

1年間も住んでいたので,水回りはどうしても汚れてくる.シャワールームの天井と壁はカビが発生しており,とても拭き取って落ちるレベルではない.なんだかんだでまあ1ヶ月分は取られることになるのだろうと推測していた.

約束の時間から20分程度遅れて大家が到着.このくらいの遅れは既に何にも憤りを感じなくなっている自分が怖い(笑).日本人会事務局のM氏にも同席して頂いたので,大家との会話は問題ない.「いい滞在だったかい?」と聞いてくるので,「もちろん」と答える.すると,全部屋の状態のチェックを行うことなく,敷金全額とボイラー修理費の立て替え分をそのまま返してくれた.現状復旧はこちらでやってくれということらしい.彼の対応は最後まで怖くなるくらいの適当さだ.まあその方がこちらも楽だけど.

仕方ないので,M氏にお願いして,知り合いの何でも屋に現状復旧をお願いすることにする.見積もりの結果,トータルで450ユーロでやってくれるというので,お願いすることにした.一ヶ月の家賃の40%弱で済んでしまったのでラッキーと言うべきだろう.修復は我々が退去した後に行われるので,慌てる必要もない.

後は退去後に鍵束をM氏に預けるだけで引き渡し手続きは終了である.拍子抜けするくらいの簡単さである.

2011年7月21日木曜日

震災の日

さて,あの震災である.3月11日の日本時間午後3時前.ローマでは午前7時前だ.この日は実は研究所への最後の出勤日でもあった.14日にはアパートを退去し,15日にローマを離れるために,この日が本当の意味で最終日だったのだ.いつものように子供たちを日本人学校に送り届け,そのまま研究所に向かう.

到着は10時前だったろうか.パソコンを開いてインターネットでニュースをチェックすると,宮城県沖を震源とする大地震の記事が目に飛び込んでくる.しかも首都圏でも震度6クラスの揺れである.直ちに家内の実家に連絡を取る.ここはすぐつながって,「とりあえず大丈夫.たまたま義父が我が家の空気入れ替えをやっていたタイミングで地震があったが,そちらも大丈夫」ということで一安心.その結果を家内に連絡し,今度は私の実家に連絡.こちらはつながらず,結局つながったのはその数時間後だったと記憶している.「被害はない.仙台いる妹(私の伯母)は無事,日立にいるその娘には連絡が取れないが大丈夫だろう」とのことでこちらもまずは一安心だった.

ローマ時間の昼頃には,インターネット上にヘリコプターから津波をキャッチした映像が出回っている.NHKのサイトは全くつながらず,BBCやCNNのサイトから情報を入手する.これらは本当に情報が早く,非常時の強さを見せつけられた.

今回の滞在でお世話になった研究所の教授がやってきて,最後の挨拶をする.「どのぐらいの被害になりそうか?」と聞いてくるので,不謹慎ながら「千人単位の死者が出ているだろう」と答えたような気がするが,死者数はあっという間にこの予想を超えてしまい,言葉を失う.

もちろん最終日の余韻を楽しむことはもはやできず,ひたすら情報収集に明け暮れる.夕方,最後に世話になった同室のF女史に鍵を返却して,別れを告げてから帰宅の途に着く.送別会などもなく,あっさりとした最後だった.よく考えたら,歓迎会もなかったな.

自粛を終えてブログをちょっとだけ再開

さて,ものすごい久しぶりの更新である.更新をしなかった理由は震災である.ニュースから流れてくる圧倒的な被害を目の当たりにして,のんきにブログを書いている気にならなかったのだ.予告なく勝手に自粛してしまったので,何人かから「滞在許可証をもらってからどうなったの?」というクレームがあったのだ.いつかは再開して,最後の二週間の顛末を書こうと思ったいたのだが,日本に帰ってきてからの日々に全くの時間的余裕がなく,つい今日まで先延ばしにしてしまった.ブログは時間と意欲がないと続かないものだとつくづく思う.

そのような訳で,本日よりちょっとずつブログを終了するために努力いたします.